ファイナンス 2020年11月号 No.660
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している那覇行きの南西航空の定期便のパイロットに頼んで、高度600メートルを飛行してもらって撮影。操縦席を出ると、大勢の乗客は2,400メートルの急降下と急上昇を繰り返したため気分が悪くなり、紙袋に口を押し当てていたという。(家でも「力仕事はすべてお袋に任せ(お袋の腕力は半端ではない)、自分は号令をかけるだけである。さすがに監督で、号令はうまい。」とは息子の天願大介監督談。)出演俳優に対しても容赦なく、三国連太郎は、水中でのダイナマイトの爆破シーンでとっさに岩陰に隠れて水圧を躱して難を免れ、「こんな人と仕事をしたら死んじゃうなという気になりました」と言い、以後の今村作品への出演を遠慮したという(11年後に今村作品に出演。)し、小学校以来の悪友でもある北村和夫は沼地に沈んでいく場面で本当に溺れかけたが、今村監督は「これは本編のテーマとなる極めて重要なシーンなんだ。もっと深く入って!」と冷たく命じ、演技を続けるよう求めたという。(しかし、結局、そのカットは使用せず。)1966年に独立して今村プロダクションを設立。映画の衰退とともに撮影所の凋落を目の当たりにし、「人材を養成する場が崩壊すれば映画はだめになる、憤りとともに強い危機感を持った。」ため、学校を作るならタダで良いという奇特な地主からボウリング場跡を借りて、映画・演劇仲間に講師を頼み込み、75年には横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、学院長に就任。自宅を借金のカタに入れて資金調達し、ヒットしないと借金の返済に追われて次の映画が作れないという苦労も重ね、映画監督は儲かるものでもないという実体験(学校の設立に絡んで、手形詐欺に遭って多額の借金を負い、10年ほど映画を作れない時期があり、助監督時代に松竹の大船撮影所の人気者だった今村夫人がアニメ制作の下請けで稼いでしのいだという。)がある今村監督は「映画や演劇など志せばいかに貧乏するのか、手続き前に講師が散々脅」したのに志望者が大勢押し寄せたという。そこで映画監督、脚本家、作家、タレント、俳優などを育成。出身タレントには、ウッチャンナンチャンのコンビや出川哲郎らがいる。「日本の底辺に目を向け、人間の本性を執拗に追求した。」と言われ、「人間というものがかくも複雑多面体かということがある 甚だ面白きものだと思います」と語る。1983年の緒形拳主演の「楢山節考」(山深い寒村を舞台に姥捨てを目前にした人間の生き方を描く。)でカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。曰く、「大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が出品されていて、前評判もかなり高かった。…マスコミの話題も「戦場」中心であった。こちらは渡仏するのも面倒なので」、カンヌには行かず、東京でスタッフらと麻雀をしながら受賞の連絡を受けたという。1997年にも役所広司主演の「うなぎ」(「妻の浮気で人間不信に陥り、唯一飼っているうなぎだけに心を開く中年男と彼をとりまく人たちの交流を描いた人間喜劇。97年度キネマ旬報ベスト・テン第1位。」)で2度目のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。2度目は夫人とカンヌまで行ったが、歴代受賞監督との夕食会で満足し、表彰式前に帰国。カンヌで二回もパルム・ドールを獲ったフランシス・コッポラら世界的にも数少ない監督の一人。このためなのか、「楢山節考」などで主演し、フランスでの今村昌平特集に行った緒形拳曰く、「フランス人が今村昌平を好きだっていうのが、ちょっと異常じゃないかというぐらい」と語る。2001年に「赤い橋の下のぬるい水」(リストラされた中年男の再起がテーマの「艶笑譚」ファンタジー。)を「カンヌ国際映画祭で上映した際、フランスの新聞リベラシオンは私を『助平じじい』と褒めてくれた。」とご満悦。2003年、日本経済新聞「私の履歴書」寄稿。2006年逝去。旭日小綬章受賞。フランスから芸術文化勲章受章。(4)宮崎駿監督(1941年~)(国内歴代興行収入1位 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」 出典:スタジオジブリ公式Website)東映動画(現・東映アニメーション)入社。Aプロダクション、日本アニメーション等を経て、85年にスタジオジブリの設立に参加。かつて、マンガを描いて出版社に持ち込んだこともあるというが、「だいた46 ファイナンス 2020 Nov.SPOT

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