ファイナンス 2020年11月号 No.660
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れた宿場町に流れ着いた浪人者が巧みな策略で双方を戦わせ、最後には自ら刀を抜きやくざたちを倒し、いずこへとも知れず去っていく。1961年、ヴェネチア国際映画祭で三船敏郎が最優秀男優賞受賞)を見た無名時代のイタリアの映画監督セルジオ・レオーネが「すごい映画がある」と言ってローマで小学校の同級生だった、後に映画音楽の巨匠となるエンニオ・モリコーネに勧めて、一緒に見て、音楽を作らせてできた映画がクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(「用心棒」の盗作として東宝が著作権侵害で勝訴)。「イーストウッドを一躍トップスターに押し上げ、監督レオーネ、音楽エンニオ・モリコーネ共に出世作」となり、マカロニウェスタンブームの火付け役に。1965年には「赤ひげ」(「江戸時代の小石川養生所を訪れる庶民の人生模様と赤ひげ所長と青年医師の心の交流を描く。」)で再び三船敏郎がヴェネツィアで最優秀男優賞受賞。1980年には「影武者」がカンヌ国際映画祭パルム・ドール。ハリウッドでもスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスなど影響を受けた監督は多く、おそらく世界でもっとも有名な日本の映画監督。「ゴッド・ファーザー」のフランシス・コッポラ監督は、友人と飲んでいて「ノーベル文学賞はそろそろ映画監督に与えられるべきだ」という話になり、ノーベル賞委員会に電報を打って「黒澤監督にノーベル賞を与えるべきだ」という申し入れをしたという。1957年の「蜘蛛巣城」(シェイクスピアの「マクベス」の戦国時代版。)では、三船敏郎演ずるマクベスが無数の矢に曝されるラストシーンで三船に向かって本当に射させたため、さすがに三船も「もし間違えて刺さったらどうすんだ!」と怒り、酔っぱらった三船が黒澤監督の家の近くに行って「『死んじまえ!黒澤!』って叫んだという有名な話」もあるというが、娘の黒澤和子(黒澤組で衣装を担当)によると「本当は子供がそのまま大きくなったような、素直で無邪気で可愛い人」だという。1985年「乱」(シェイクスピアの「リア王」の戦国時代劇版」邦画配給収入3位)に17歳で出演した野村萬斎は、「できることなら、黒澤番『ハムレット』というものに出てみたくもあり、見てみたかったなという気がいたしております。」という。1976年文化功労者、1984年フランスからナポレオンが創設したレオンジドヌール勲章(オフィシェ)受章、1985年レオンジドヌール勲章(コマンドール)受章、同年、文化勲章受章。1998年逝去、死後贈従三位、国民栄誉賞。(3)今村昌平監督(1926年~2006年)黒澤明監督と同様、三大国際映画祭で2度も最高賞獲得。東京・大塚の開業医の家に生まれ、18歳で終戦を迎え「ちょうど朝鮮戦争頃、私は新宿の遊郭と駅前の闇市を往復して稼いでいた頃で…生涯で最も裕福な時代だった。」と語る。「人間の欲望がむき出しに渦巻く闇市での生活体験が今村昌平の原点」だという。家庭教師先の倒産で授業料代わりに貰った焼酎を闇市で売り捌き、1948年、闇市を舞台にした黒澤明監督の「酔いどれ天使」を見て映画監督を目指したが、黒澤明監督のいた東宝では助監督の採用がなく、松竹に入り、「麦秋」の途中から小津監督の助監督となる。「東京物語」では、設定が秋の尾道ロケが実際は七夕の季節だったので、「山から町を俯瞰すると、短冊を吊るした町中の笹竹がどうしてもうつってしまう。ドラマの設定は秋なのでそれはまずい。ので「『あれを倒してきてくれ。』と、こともなげに言う小津さんの言葉を受けて駆け出したはいいが、竹は何千本もたっている。一軒一軒に頼み込んで倒してまわり、へとへとに」なったという。小津監督の覚えもめでたい伝説の助監督で「小津さんはずっと私のことを気にかけてくれていたようだ」という。1954年に日活へ移籍。1958年に旅回りの劇団の座付作家と座長の娘たちを描いた『盗まれた欲情』で監督デビュー。翌年、貧しさに負けず、明るく逞しく生きる兄弟愛を描いた『にあんちゃん』(ベストセラーとなった10歳の少女の日記を映画化。)で文部大臣賞を受賞し世に名を広める。日活の監督としては「鬼の今平」と呼ばれ、唐津ロケ中、「撮影のさなかに背景の海に大きな貨物船が現れ、邪魔であった。」ため、助監督に「なんとかしろ」と怒鳴って、船長以下乗組員を説得させて貨物船をどかせたり、借家で撮影中、部屋が狭すぎて撮りたい映像が撮れず、撮影がストップしたため、カメラのスペースを確保するため、夜中の12時近くに助監督に隣家と交渉させて台所の壁に穴を開けさせてもらったり、航空撮影のチャーター便の資金が底をついたため、通常3,000メートルを飛行 ファイナンス 2020 Nov.45サヨナラ、サヨナラ、サヨナラSPOT

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