ファイナンス 2020年11月号 No.660
48/90

1953年の原節子、笠智衆の「東京物語」(尾道から東京で暮らす子どもたちを訪ねた老夫婦の姿を通し、戦後日本における家族関係の変化を描いた名作)では、テレビもない時代、銀幕のスター、原節子を一目見ようと尾道ロケにはファンが朝3時に数千人が集まったという。1958年、紫綬褒章、1963年、60歳の誕生日に逝去。勲四等旭日小綬章受章。(2)黒澤明監督(1910~1998年)(今年12月、京都でヴエネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した「羅生門」の英語字幕付きの上映会開催 提供:国際交流基金)「“世界のクロサワ”と言われた映画界の巨匠・黒澤明」、「独特の映像世界を創造し、世界中の映画ファンに感動を与えた。その一方で、映画製作に対する厳しい姿勢から、『完全主義者』『黒澤天皇』と呼ばれた黒澤監督は「頭で映画を作るようではだめ。心で映画を作らなければ」と語る。1937年、東宝入社。入社の選考試験に加わった山本嘉次郎監督は、「黒沢君の第一印象は春風のように暖かく柔和な外面に、なにかごつんとした強い芯をくるんである感じであった。聞くと洋画家を志望していたが、絵では飯が食えぬので映画に転じるのだと答えた。私は少し意地悪く、それなら飯さえ食えれば絵の方がいいのですか、と聞き返した。いや絵だって映画だって同じですと黒澤君は肩をそびやかした。私はその一芸に達した達人のように自信に満ちた言葉に打たれて会社に採用するようにと進言した。」、「かれは私の助監督についたが、わたしとは実によく話があった。他の助監督は映画一点張りの映画青年ばかりなのに引きかえ、油絵はもちろんのこと、日本の古い絵もよく理解していた。また新劇もよく見ていたが能もよく見ていた。音楽はベートーベン、文学はドストエフスキーとバルザック、そして相撲と野球にくわしかった。しかし、それがすべて彼独自の見解で把握されていて、その意見には天才的な真実の追求があった。絵だって映画だって同じだというのもそこにあった。」と語る。1948年、黒澤=三船の黄金コンビ誕生の記念すべき作品、ヤミ市を舞台に酒好きの医者と結核を患う若いやくざとの交流を描いた「酔いどれ天使」で新人・三船敏郎は、「時代のヒーローになった」と言われ、当時学生で演劇にハマっていた今村昌平監督は「三船を見て、映画にはこんなことができるのかと私自身素直に感動した。」「同じ映画を二度続けて観たのは、後にも先にもこの時だけである。劇場を後にしながら、私は映画監督になろうと決意していた。」といい、演劇青年を辞めて、映画界を目指したという。芥川龍之介の「藪の中」が原作の「羅生門」(本作の成功で黒澤監督とともに海外で高い評価を受けた三船敏郎(実家が大連の写真屋で復員後に東宝にカメラマンの助手として応募したら、なぜか、ニューフェース1号として採用されたという逸話がある。)主演、京マチ子共演)で1951年にヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。黒澤監督は、「私は、『羅生門』がヴェニスの映画祭に出品された事すら知らなかった」が、「ある日、釣りをしていると、夫人が土手を走ってきて、『羅生門』がグランプリです。」と告げたという。映画評論家の淀川長治は「羅生門は日本を世界に知らしめた」と語る。「羅生門」の助監督だった田中徳三監督は、「スタッフ、俳優の全てのエネルギーを絞りとってゆくその姿は、まさにエゴの塊であった。撮影は、しわぶきひとつしない荘重ともいえる異様な雰囲気で始まった。」という。黒澤明の「用心棒」(二組のやくざが対立するさび44 ファイナンス 2020 Nov.SPOT

元のページ  ../index.html#48

このブックを見る