ファイナンス 2020年11月号 No.660
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笑うところでは笑っているようなんですよね。国によって色んな反応がありますが、心の動きは同じだなという実感があります。」、「私も色々な国の映画を観ていますが、言葉が全然通じない国の人にも、映画は意外と通じるのだなと感じます。映画は世界共通の表現なのだということを何度も経験していますので、言葉にできる何かを伝えたいということはないんです。」と語る。今回は、10月号でもご紹介したような国際映画祭などで評価されている日本映画を世に送り出した監督を御紹介。2日本の映画監督誰をご紹介すべきかは実に悩ましく、異論もあるかと思う。(1)小津安二郎監督(1903年~1963年)「ローポジションやカメラの固定といった“小津調”と形容される独自の技法」で、原節子、笠智衆、杉村春子ら同じキャストで同じテーマの作品が多く、「俺は豆腐屋だから豆腐を作るだけ」と語ったという小津監督。国際的な賞を取ったわけではないのに、外国で日本映画祭などというと、きっと小津作品をどうするかとなる。「普通の戦後の日本の家族の問題を扱っているのに、ドメスティックなものにならず、…非常にインターナショナルな存在」だと、音楽家の坂本龍一も語る。検閲が行われていた戦中、監督になるための内務省の試験があったという1943年、黒澤明監督のデビュー作、柔道の素晴らしさを知った主人公姿三四郎が、柔道を通じて人間的に成長していく姿を描いた「姿三四郎」の審査の際には他の検閲官から批判がある中、検閲官だった小津監督が「100点満点として120点」として絶賛し後押し。その公開につながったという。1949年の「晩春」(「小津作品でしばしば登場する、結婚を巡る父と娘の物語をこれが最初となる笠智衆、原節子の共演で描く。」)を見た黒澤明監督も「独特のキャメラワークでずいぶん外国でもマネしている監督も多いし、小津さんの映画は海外ではちゃんと見られているんだ。学ぶところが多いからね。日本の映画を志す若い人達にもどんどん観てほしいですね。」と語ったという。小津映画に出演した高峰秀子は、「小津組から声がかかるということは、俳優にとって一つの『名誉』であり、小津作品に出演したということは、「俳優としての免許皆伝」を受けたという証明になるほどであった。」という。そして、共演した笠智衆について、「沈着そのものの笠さんは、いつも本番で震えた。私はその笠さんを見てギョッとなり、あげくはその震えが自分にも伝わってくるのを感じて、いまさらながら小津先生の恐ろしさを知るのだった。」と語り、岩下志麻は、「失恋して無言で巻き尺を手で巻くシーンでは百回くらいのテストがありました。」、「百回の間、先生は何がダメなのかおっしゃらない。」、「『人間は悲しいときに悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ。』。この小津監督の言葉がそれ以後、私が演技で悩んだ時の原点になっています。」と語る。小津監督の下で助監督だった今村昌平監督も、小津監督について「温和さの中に近寄りがたい厳しさがあり、撮影所では天皇のような存在だった。そうなると、小津組にいるというだけでスタッフでも所内では特別扱いであった。小津組のセットは匂いからして他の組とは違う。」と語り、「羽田ロケの時、遅れてきた鶴田浩二を叱った時の小津さんの顔だけはよく覚えている。『車がエンコしまして。』と言い訳をする鶴田を幼児に父親がやるように下唇を突き出しメッという表情で『誰が車で来いと言った。』と決めつけた。鶴田はその為、一日中、ションボリして仕事にならず、確か羽田ロケは再度行われることになった気がする。」という。プライベートではお茶目な面もあり、仲人を務め親交のあった俳優佐田啓二の家を気に入ってよく遊びに行き、幼少だった娘、後の女優中井貴恵を大変可愛がる。小津監督が佐田家にやってきて宴会が開かれると、しばしば家に現れる小津監督が「どんな仕事をしている人なのか、何故こんなにしょっちゅう我が家にいるのか、全く理解していなかった」中井は、幼子ながらとっくり片手にお酒を注いで回り、小津監督は「未来の酒好きを保証するようなこの幼子に待ってましたとばかりにしっかりと宴会の楽しさを教え込」み、当時大流行だった植木等の「スーダラ節」をほろ酔い気分で自身の振りつきで何度となく中井と一緒に歌っていたという。1951年、『麦秋』(これも原節子、笠智衆出演、娘の結婚問題を描いた作品)で芸術祭文部大臣賞受賞、 ファイナンス 2020 Nov.43サヨナラ、サヨナラ、サヨナラSPOT

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