ファイナンス 2020年11月号 No.660
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る。しかしながら、わが国では多数決で決めようとすることに対して、しばしば「多数の横暴」と言われる。あくまでも、コンセンサスを求めるべきだという考え方がその背景にある。それは、江戸時代以来の全員一致を良しとする考え方を踏まえたものといえよう*3。実は、江戸時代の村の寄り合いには、地主だけでなく小作人も含めて村人みんなが参加し、全員が納得するまでの話し合いが行われていた。多数決は行われていなかった。寄り合いには、その家の主人が亡くなった場合には未亡人が、未亡人もいない場合には未成年の子供が参加していた。そこには「多数の横暴」はなかった。それは極めて民主的なプロセスで、けして「全ての真実や信念を犠牲にする」ようなコンセンサスが求められていたわけではなかった。ただ、そこには、英国流の「言葉の決闘」はなかった。そんなことをすると傷つく人が出てきてしまうと考えられていたのである。論理的な説得はほどほどにして、説得されない参加者には論理を超えたところでその者の顔を立てて全員一致の意思決定が行われていた。それは、理想的に行われれば素晴らしい仕組みであった*4。しかしながら、それは、全員が先祖代々同じ生活圏で暮らしてきた江戸時代の村という狭い世界では合理的に機能する仕組みであったが、明治維新になって文明開化の下、人々の生活圏が拡大すると合理的でも可能でもなくなり、多数決が導入されたのである*5。しかしながら、そのようにして多数決が導入されたが、今日でも日常生活の場で多数決で物事が決まることはほとんどない。家庭の中でもそうであるし、会社においても最後に決めるのは部長であり社長である。多数決原理に基づく会議が行われるが、その前には根回しが行われて、できるだけ全員一致にする努力が行われるのが一般的である。それは、政治の場でも同様である。竹下登元総理の回顧録*6に、「タフ・ネゴシエーターといえば、実は強力なネゴシエーターじゃないんだ。本当は相手の立場を引き上げていく能力があるということなんだ」というくだりがある。相手の立場を引き上げるというのは一種の「根回し」であり、*3) 筆者は、日本語の構造自体に内在している日本文化がその背景にあると考えている。「和をもって貴しとなす」との聖徳太子の17条の憲法も同じ考え方の発現といえるのではということである。*4) EUの意思決定においても、政策分野によっては全員一致が求められている。*5) 「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011、p37-38参照*6) 「政治とは何か」竹下登回顧録、講談社、2001*7) 「人間通」谷沢永一、新潮選書、2008そのようにして全員一致を目指すのである。そのような手法による意思決定の背後にあるのが、江戸時代以来のコンセンサス形成が理想的という考え方というわけである。3我が国のコンセンサスを支える「根回し」我が国でコンセンサスを得るために行われる「根回し」について、谷沢永一氏*7は以下のように述べている。「なんらかの組織に属する我が国びとが、猛然と腹を立てる最も普遍的な情景はなにか。決まりきった通例がどこにでも見られる。すなわち、それを私はまだ聞いていない、と怒りだす場面である。ひとりがこう開き直って異議の申し立てを始めると大抵の会議は二進も三進もいかなくなる。日本人は常に仲間のひとりとしての座を確保していなければ気が済まない。この場合の仲問とは情報を共有している関係であり、それを確認して安堵している自己満足が生甲斐なのであろうか。情報がいつもおのずから当方に達するのは自分が重んじられているからである。この俺様が、承知していなければ何事も前へ進まないのだと自信を強めるためには、あちらこちらからしょっちゅう情報が耳打ちされていなければならない。誰かを最も痛切に苛める手立ては独りぽっちに追いこむ措置であり、気の毒なその人は恐らく精神に変調を来たすであろう。ゆえに我が国では会議の前に根回しが必須となる。あまねく同意を得てから漸く開催に漕ぎつけるのだから殆どの会議は儀式でしかない。これは勝者と敗者をつくらないための欠くべからざる措置である。真剣勝負の討論に持ちこめば必ず誰かが敗者となる。簡単な議事であっても負けたら怨む。そして遣る気を失う。協力しなくなる。仕事に齟齬を来たす。根回しは単に面子を立てるだけではない。その人の自覚を高め遣る気を起こさせる手立てである。人を心の底から喜ばせる素晴らしい措置なのである。」この谷沢氏の指摘は、日本の意思決定過程が「人格を尊重する」ことそのものであり、「人格を尊重する」具体的手段として「根回し」が行われてコンセンサスが形成されることを示し ファイナンス 2020 Nov.37危機対応と財政(6)SPOT

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