ファイナンス 2020年10月号 No.659
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妹妙子は三校教授山谷省吾に嫁しており、次の妹田鶴子の夫はのちに東京府知事を務めた川西実三であった。股旅物作家と評されていた長谷川伸と、当時最高のエリートコースを進む三谷家の両者にとって、こうした状況は、再会に踏み切るかどうか逡巡させるものだったろうが、本書によれば、この迷いは「杞憂に終わった。長谷川伸の人柄が三谷家の人々の心をうち、異父弟たちもまたかれを暖かく迎え入れたからだった」。本書は、文学界、映画界、演劇界に長谷川伸を追慕する人々が多いことを指摘し、門下生の一人である棟田博(作家、代表作「拝啓天皇陛下様」)のエピソードを紹介する。昭和13年棟田が歩兵伍長として中国の戦場にいたおり、決死隊任務を命ぜられ、訣別の手紙を2通出すことを許されたとき、彼は迷わず母と長谷川伸に出した。長谷川とは、心の師と慕いつつも文通だけで未見の間柄であった。棟田は負傷して内地送還後、ようやく師との出会いがかなう。そのときは、「とても上機嫌」の先生の姿に接しただけであったが、後日他人から、長谷川伸は棟田の訣別の手紙をシャツの下に入れ、肌身放さず身に着けていたことを知らされた。棟田の言うように、長谷川は「純乎たる日本人の生き方」を、身をもって垂範する人であったのだろう。いや、垂範などという意識はなかったのではないかと思う。本書の終章に、長谷川伸が死の4日前に病床で口述した「絶筆」が紹介されている。その末尾に「埋もれた人々をほりだしたい。誤解された人物を正しく見たい。…じっくり想を練り、人々の魂に何かを与える紙碑を残したいと思います。」とある。驕りもなければ気取りもない。嫌味も臭味もない。枯れてもいない。すごい人だ。亡くなる数日前にこんなことを言い残せる人になりたいと思う。もちろんなれるはずもないことはよくわかっているのだが。十数年前、新入職員数名を連れて花見に出かけたことがあった。その折に、浅野内匠頭の辞世の句の話がきっかけで、酒の勢いから、止せばいいのに「日本人のこころは忠臣蔵と長谷川伸の戯曲にあるんだ」と演説してしまった。ところが、皆「沓掛時次郎」、「一本刀土俵入り」は勿論「瞼の母」さえ知らないという。忠臣蔵を知らない者もいた。がっかりして、「ちくま文庫に長谷川伸の戯曲がまとめられたのがあったから、機会あれば読むといいよ」と偉そうに言って、その場は終わったのだが、中にはまじめな若者がいて、後日「先輩のおっしゃっていたちくま文庫を調べたのですが、『瞼の母・沓掛時次郎』は絶版です」と教えてくれた。長谷川伸の創始した新鷹会という勉強会に集った山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、平岩弓枝、池波正太郎などの文庫本は書店の書架にたくさん並んでいるのに、彼らの師匠格であり、一頭抜きんでた作家だと思う長谷川伸の本が一冊もないのは、時世とはいえ寂しいことである。私が最初に読んだ長谷川伸の作品は「佐幕派史談」だった。当時高校生か大学生だった私は、周囲の大人たちの話から、長谷川伸という人はいわゆる股旅物の作家とされていてその戯曲は専ら大衆演劇で演じられているということを知っていた。生意気盛りの年頃の私は、股旅物とか大衆演劇とかいうものを、食わず嫌いのまま低く見ており、それと、まさしく紙碑と評されるべき「佐幕派史談」の内容が、どうしても一致しなかったことを覚えている。長谷川伸は、股旅物で成功したが、後半生には歴史物に注力した。昭和17年に「佐幕派史談」、18年に「相楽総三とその同志」、30年に「日本捕虜志」、38年に「日本敵討ち異相」を著している。彼の歴史物には「誤解された人物を正しく見たい」という姿勢が貫かれている。誤解され歴史に埋もれた人達への「紙の記念碑」であり、「文筆の香華」なのである。その後私も年齢を重ねるにつれ、長谷川伸の股旅物の戯曲の魅力がわかるようになってきた。本書にも取り挙げられる「長谷川伸論」(佐藤忠男著、中央公論社)の中で、佐藤は「近代日本の作家で、長谷川伸くらい、すぐれて倫理的な先品を書いた人はそうざらにいない」、「貧しさゆえにぐれて放浪している点では社会の被害者」である主人公のやくざが「やくざ社会の掟に殉じて何かやると、きっと『沓掛時次郎』の未亡人と子供のように、自分などよりもっとかわいそうな人間を、もっともっとかわいそうな境遇につきおとす結果になる。長谷川伸のヒーローはそれをいつも、己の原罪としてとして背負うのである」と指摘している。そして、長谷川伸と「沓掛時次郎」を映画化した監督である加藤泰に関して、「長谷川伸=加藤泰の世界では…すべての男は、すべての女に負い目があり、 ファイナンス 2020 Oct.67新々 私の週末料理日記 その41連載私の週末 料理日記

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