ファイナンス 2020年10月号 No.659
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建で、昭和34年(1959)に電車通りに面して鹿児島銀行の新たな本店が完成した後も長らく別館として使われてきた。往時の広馬場通りを今に伝える歴史的建造物だったが、平成28年に解体され現存しない。他にも、広馬場通りには鹿児島貯蓄銀行があった。メインストリートが広馬場通りから外れるきっかけとなったのが大正3年(1914)に開通した路面電車である。元々広馬場通りを通る予定だったが、騒音や道路の拡幅による立ち退きを嫌がる沿線地主の反対が起きた。そこで一筋隣の加治木町通りのルートが持ち上がった。今の電車通りである。代案を出した山形屋の当主・岩元信兵衛が拡幅にかかる所有地を寄付したことも奏功した。山形屋は宝暦元年(1751年)創業の老舗である。屋号の通り始祖・初代源衛門は山形県の出身で、紅花仲買・呉服太物行商を起こし山形を本拠に京都・大阪と往来していた。藩主島津重豪の誘致策に乗り現在の山形屋本店1号館の場所に呉服太物店「山形屋」を構えたのは安永元年(1772)。後の市電ルートの加治木町通りを背中に、その一筋隣の木屋町通りが店の正面だった。百貨店に転換したのは大正5年(1916)で、開通まもない電車通りを正面に、ルネサンス建築様式4階建の店舗を新築した。本館角のドーム屋根が特長だった。ドームは昭和30年(1955)の増築で撤去されたが、平成10年のルネサンス調リニューアルで復元された。現在の山形屋本店は大正時代の意匠を引き継いでいる。このような経緯で今の市電ルートがメインストリートになり、広馬場通りは裏通りになった。もっとも銀行街ではあり続けた。大正12年(1923)、いづろ通りとの交差点に安田銀行(現・みずほ銀行)が進出。その向かい側の角にあった銀行を昭和18年(1943)に住友銀行(現・三井住友銀行)が買収した。戦後は鹿児島信用金庫、鹿児島相互信用金庫が広馬場通りに本店を構えている。新幹線開通で試された天文館の底力鹿児島駅の開業は明治34年(1901)である。初代の鹿児島本線は八代から一直線に南下し、人吉を経由して今の肥薩線、日豊本線のルートを辿っていた。鹿児島駅は頭端式のターミナル駅で、県都の玄関口は街の北側に面していた。その後、城山の裏手を迂回するように延伸し、大正2年(1913)に武駅、後の西鹿児島駅ができた。ちなみに藩政期の鹿児島城下町の境界は甲突川である。この辺りは下級武士の居住地だった。西郷、大久保など維新の英雄の生家が集まっているのはそのためだ。新駅はその甲突川のさらに向こうにできた。街のはずれのなお外側で開業当初は何もない郊外だった。武駅は八代から海沿いのルートを辿り川内市(現・薩摩川内市)を経て鹿児島に至る川内線の駅だった。元々国防上の都合で内陸ルートが選ばれたこともあって、昭和2年(1927)にそれまでの内陸ルートに取って代わって川内線が鹿児島本線となった。同時に武駅が西鹿児島駅に改称。以来、西鹿児島駅が鹿児島の玄関口になった。昭和32年(1962)の西鹿児島駅前の路線価が坪当たり43万円だったのに対し、天文館の路線価は65万円。駅前と天文館の路線価はおよそ2:3でその後も同じ比率で推移してきた。転機は九州新幹線である。平成16年、九州新幹線の部分開通を機に西鹿児島駅が鹿児島中央駅に改称。当初は鹿児島中央駅から新八代駅までの営業だった。あわせて駅ビル商業施設のアミュプラザ鹿児島が開店。当時は県内最大規模の商業施設だった。平成5年以来、鹿児島市内の地価は下落傾向を辿っていたが、部分開通を機にまずは駅前の路線価が下げ止まった。そして翌年は上昇に転じた。他方、ペースは鈍化しつつも天文館の下落傾向に変52 ファイナンス 2020 Oct.図3 天文館電車通りと鹿児島中央駅前の路線価た。山形屋は宝暦元年(1751年)創業の老舗である。屋号の通り始祖・初代源衛門は山形県の出身で、紅花仲買・呉服太物行商を起こし山形を本拠に京都・大阪と往来していた。藩主島津重豪の誘致策に乗り現在の1号館の場所に呉服太物店「山形屋」を構えたのは安永元年(1772)。後の市電ルートの加治木町通りを背中に、その一筋隣の木屋町通りが店の正面だった。百貨店に転換したのは大正5年(1916)で、開通まもない電車通りを正面に、ルネサンス建築様式4階建の店舗を新築した。本館角のドーム屋根が特長だった。ドームは昭和30年(1965)の増築で撤去されたが、平成10年のルネサンス調リニューアルで復元された。現在の山形屋本店は大正時代の意匠を引き継いでいる。 このような経緯で今の市電ルートがメインストリートになり、広馬場通りは裏通りになった。もっとも銀行街ではあり続けた。いづろ通りとの交差点には安田銀行(現・みずほ銀行)が大正14年(1925)に進出。その向かい側の角にあった銀行を昭和18年(1943)に住友銀行(現・三井住友銀行)が買収した。戦後は鹿児島信用金庫、鹿児島相互信用金庫が広馬場通りに本店を構えている。 新幹線開通で試された天文館の底力鹿児島駅の開業は明治34年(1901)である。初代の鹿児島本線は八代から一直線に南下し、人吉を経由して今の肥薩線、日豊本線のルートを辿っていた。鹿児島駅は頭端式のターミナル駅で、県都の玄関口は街の北側に面していた。その後、城山の裏手を迂回するように延伸し、大正2年(1913)に武駅、後の西鹿児島駅ができた。ちなみに藩政期の鹿児島城下町の境界は甲突川である。この辺りは下級武士の居住地だった。西郷、大久保など維新の英雄の生家が集まっているのはそのためだ。新駅はその甲突川のさらに向こうにできた。街のはずれのなお外側で開業当初は何もない郊外だった。武駅は八代から海沿いのルートを辿り川内市(現・薩摩川内市)を経て鹿児島に至る川内線の駅だった。元々国防上の都合で内陸ルートが選ばれたこ時に武駅が西鹿児島駅に改称。以来、西鹿児島駅が鹿児島の玄関口になった。 昭和32年(1962)の西鹿児島駅前の路線価が坪当たり43万円だったのに対し、天文館の路線価は65万円。駅前と天文館の路線価はおよそ2:3でその後も同じ比率で推移してきた。転機は九州新幹線である。平成16年、九州新幹線の部分開通を機に西鹿児島駅が鹿児島中央駅に改称。当初は鹿児島中央駅から新八代駅までの営業だった。あわせて駅ビル商業施設のアミュプラザ鹿児島が開店。当時は県内最大規模の商業施設だった。平成5年以来、鹿児島市内の地価は下落傾向を辿っていたが、部分開通を機にまずは駅前の路線価が下げ止まった。そして翌年は上昇に転じた。 他方、ペースは鈍化しつつも天文館の下落傾向に変わりなく、だんだんと駅前との差が縮まってきた。駅ビルの攻勢に加え郊外ショッピングモールの進出も影響した。象徴的だったのは平成18年、映画の街でもあった天文館で最後の映画館が閉店し、当地から映画館が消えたことである。平成21年には三越鹿児島店が閉店した。街の中心が天文館から駅前に移るように思われた。 もっとも、同じように商業集積の郊外化に悩む地方都市が多い中、鹿児島の場合は商業機能が比較的都心に残っている。平成26年の中心市街地の年間商業販売額は、中心街がわりあい賑やかな金沢市の23.3%を上回る29.4%。20年前も30%台前半で推移しており、図3 天文館電車通りと鹿児島中央駅前の路線価 600700800900100011001417202326292千円/㎡九州新幹線全線開通新八代開通天文館駅前0令和平成年出所)筆者作成 出所)筆者作成連載路線価でひもとく街の歴史

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