ファイナンス 2020年10月号 No.659
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が今に至る鹿児島市街の中心だ。いづろ通りは藩政期以来の幹線で鹿児島港に突き当たる。いづろは漢字で「石燈篭」と書く。幕末期の資料「鹿児島風流」を見ると、賑やかな通りの先の岸壁に灯篭が確認できる。錦江湾を航行する船の灯台代わりになっていたそうだ。昭和60年代に埋め立てが進み、今はフェリーターミナル、公園、商業施設や水族館が並ぶウォーターフロントが広がっているが、それまでは現在よりも天文館の側に岸壁があった。今の臨港道路になっている場所が岸壁で、名山桟橋、ポサド桟橋など桜島、薩摩・大隅半島、南西の島しょ地域に向かう航路の桟橋がところどころ突き出ていた。ここには十島村と三島村の役場がある。役場が行政区域の外にある珍しい例だ。トカラ列島、上三島の島しょ群が行政区域で、島ではなく本土の村営航路の発着場の近くに役場を置いた。たしかに島しょ間を互いに行き来するより合理的だ。鎖国時代、鹿児島港は長崎、対馬、松前に並び海外に開かれていた4つの窓のひとつだった。琉球貿易の拠点で、幕府に許されていた他に密貿易を行い、交易を通じて蓄えた富が幕末維新の原動力になった。鶴丸城の隣には琉球王国の出先機関である琉球館があった。琉球館は中国の福州にもある。つまり琉球貿易を介して当時の薩摩藩は対中貿易も手掛けていた。たとえば黒糖や鰹節を北前船で売りさばき、北海道の昆布を仕入れ、琉球や中国に輸出した。今でも昆布は沖縄料理に欠かせない食材だ。このような具合で鹿児島港は北前船ルートにも深くかかわっていた。いわば内航と外航が交差する港であった。ちなみに沖縄本島を貫く国道58号線の起点は鹿児島にある。西郷隆盛の立像(昭和12年(1937)完成)がある交差点を起点に朝日通りをなぞり、鹿児島港から種子島、奄美大島を経て沖縄県那覇市に至る。朝日通りは明治にできた道路で、当時は城山側の突き当り、今の中央公園の敷地に半分かかるかたちで県庁があった。明治11年(1878)完成の初代庁舎だ。元々城下町の町割りは港を焦点に放射状のグリッドを形成しているが、その中でも朝日通りは県庁を起点に軸線が桜島の山頂に延びている。都市の景観を意識しただろう、いわば明治のシンボルロードだ。広馬場通りから天文館電車通りへ鹿児島の中心街は港とともに発展した。天文館はいづろ通りを介して港につながっている。ただ、戦前の中心街はもう少し港に近かった。広馬場通りが当時のメインストリートである。明治の大店、「明治屋呉服店」が大正元年(1912)、いづろ通りと広馬場通りの交差点の近くに建てた木造3階建の洋館が異彩を放っていた。広馬場通りは銀行街でもある。明治6年(1873)第五国立銀行が鹿児島支店を出店。本店は大阪だったが島津家の出資で鹿児島との縁が深かった。名山堀に架かる朝日橋のたもとにあった。再編統合を経て十五銀行のときに朝日通りの角に移転。鹿児島市金庫を務めたこともある当地の有力行だった。その後帝国、三井銀行の時代を経て、今はリッチモンドホテルが建つ。広馬場通りには鹿児島銀行の前身、創立明治12年(1879)の第百四十七銀行もあった。鹿児島市生まれの建築家、齋藤久孝が設計した本店が大正7年(1918)に完成。ルネサンス様式一部3階の2階 ファイナンス 2020 Oct.51路線価でひもとく街の歴史図2 初代県庁跡地から朝日通り(国道58号)を通し桜島を望む出所)Google Earth連載路線価でひもとく街の歴史

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