ファイナンス 2020年10月号 No.659
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すべき時であると考えた大久保は、盟友の西郷を切り捨てて征韓論を封じ込めた。そして、征韓論で政敵を一掃した後に、大久保独裁政権と言われる権力を確立して殖産興業に政策の重点を置くが、明治7年には台湾出兵*23を強行してその収拾にあたることになる。当時、「眠れる獅子」と言われていた清国の力は強く、台湾出兵には英国などの反発もあったことから、交渉は難航したが、大久保は譲るべきを譲って何とか妥結させた。何故、筆者がここで、大久保のこのエピソードを紹介するかと言えば、日本が国策を誤って先の戦争に突入したことを批判した清沢洌*24が、リーダーがとるべき外交として日米開戦直後にそれを取り上げているからである。清沢は、1942年1月に出版した「外交家としての大久保利通」で、日米開戦に至った日本外交を痛烈に批判した。そこで清沢が引用したのが「国家を経略しその国土人民を保守するには深慮遠謀なくんばあるべからず。故に進取退守は必ずその機を見て動き、その不可を見てやむ。恥ありといえども忍び、義ありといえども取らず」という大久保の言葉だった。それは、大久保がとったようなマキャべリスト的な外交を展開していれば、ルーズベルト大統領とも折り合いをつけられたはずだということを暗に示したものであった*25。明治11年5月、大久保は暗殺される*26。大久保暗殺の後を襲ったのは、伊藤博文、山縣有朋、松方正義といった明治の元勲たちであった。伊藤は、山縣と時に連携し、時に対峙しながら、西欧型の政党政治の導入を試みた。山縣は、多くの人に嫌われながらも、帝国主義が跋扈していた当時の国際政治の現場でマキャベリズム的な対応で誤りなきを期した。松方は松方デフレと言われた金融・財政政策を断行して、日本経済発展の基盤を作り上げた。そのように政権中枢に入った元勲たちに対して、自由民権運動以来の藩閥政治だという批判を続けたのが、大隈重信、板垣退助、星亨と*23) 征韓論がおこる前の明治4年に台湾で起きた琉球漂流民殺害事件の責任を追及するとして、明治7年に台湾に出兵した事件。*24) 戦前期における最も優れた自由主義的言論人とされる。「清沢洌―外交評論の運命」北岡伸一、中公新書、2004、参照。*25) 大久保が立憲政体について持っていた構想については、「明治維新の意味」pp184-186参照。*26) 大久保は、明治元年から10年までを戦乱が多い創業の時期、明治11年から20年までを内治を整え、民産を興す建設の時期で、それまで自分が担当し、明治21年から30年までは後進の賢者に譲るとしていた。*27) 「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011、pp170-177*28) 昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約が統帥権の干犯にあたるとして野党が問題にしたもの。*29) 二大政党制を定着させようと考えていた元老の西園寺も、ロンドン海軍軍縮条約反対派の牙城であった枢密院が「不条理なことを言うならば、総理は職権をもって枢密院議長、副議長を罷免しても良い」と述べてバック・アップした(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、pp265-268)。いった人々であった。帝国議会では、丁々発止の議論が展開された。そうして誕生したのが、大正デモクラシーの下での原敬内閣(大正7年―10年)であった。原は、平民宰相と言われる一方でマキャベリスト的な政治家としても知られていた。だから暗殺されたのである。原は、鉄道利権を駆使し、小選挙区制を導入して、自らが属する政友会の勢力を拡張した。そして、同じくマキャベリストであった山縣に接近して良好な関係を築いた。原の暗殺を聞いた時、山縣は自らの死の床にあったが「ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない。原が死んだのは誠に残念だ」と繰り返したとされている。この辺りは、拙著「山縣有朋の挫折」に書いているので、興味のある方は参照していただければ幸いである*27。大正デモクラシーは、原の暗殺を乗り越えて、大正13年6月には加藤高明憲政会内閣の成立によって英国型の二大政党制を成立させた。帝国議会では、二大政党制というのにふさわしい議論が展開された。ロンドン海軍軍縮条約をめぐっての統帥権干犯問題*28が、後の軍部の暴走を招くきっかけになったとされているが、野党政友会の難癖ともいえる批判に対して、立憲民政党の濱口首相は「憲法上、統帥権も、兵力決定権も、条約締結権も、天皇の大権であり、一つの大権が他の大権を侵犯することはありえない」と正面から反論を行ってそれを退けている。マスコミの論調も「統帥権干犯などという犬養や鳩山の言い分は、野党ゆえ倒閣を目論んで言っているだけである」といったものであった*29。しかしながら、そこで軍部と結びついた政友会が、その後、軍部を抑制しようとする政府の弱体化を狙って高橋是清蔵相など政権関係者のスキャンダル暴きに走ったことが、日本での政党政治を自滅させていった。5・15事件や2・26事件といった不幸な出来事もあり、結局、戦前の日本の二大政党制は、危機時のリーダーシップを確立することができなかった28 ファイナンス 2020 Oct.SPOT

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