ファイナンス 2020年10月号 No.659
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民主主義国家における危機時のリーダーシップは、一朝一夕に確立されるものではない。それは英国を除いて、2度の世界大戦を経て確立されてきたものである。その英国のチャーチル元首相は、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」*1と言っていた。今回は、米仏英の危機時のリーダーシップ確立の歴史と、それに失敗した我が国の歴史について見ていくこととしたい。1米国大統領のリーダーシップの確立米国の正式名称は、アメリカ合衆国(United States of America)である。州(States)が合わさって建国されたのが米国で、そのことは星条旗を見れば一目瞭然である。独立戦争を戦った13の州を象徴する13の横線(条)をベースに左上の青枠に現在の州を示す50の星がちりばめられている。米国では、13の州が連合して英国との独立戦争を戦ったことから、建国当初、連邦政府への州政府の権限は極めて強かった*2。連邦政府の中で強い州を代表していたのが連邦議会で、議会に対しての大統領権限は極めて弱いものであった。例えば、欧州諸国なら政府に編成権がある予算が、米国では連邦議会に編成権があることとされ、今日でもその仕組みは変わっていない。大統領が年頭に議会に提出する予算教書は、議会が予算を編成する際の参考資料であり、連邦議会の多数派が大統領と反*1) この言葉は元々、ギリシャの哲学者アリストテレスのものと考えられる。*2) 今日でも、各州は独自の憲法を持ち、商法典や刑法典は各州独自である。わかりやすい例でいえば、各州の刑法に定めている死刑のやり方も、ある州ではガス室であり、ある州では薬物注射といった具合である。連邦政府の弱い権限の背景としては、米国がヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて移民してきた人々によって作られたコミュニティーを基礎にしているという点も指摘されることがある。アレクシス・トクヴィルは、「アメリカの民主主義」の中でコミュニティーの強さと、その反面としての弱い連邦政府の存在を指摘している。*3) したがって、議会で予算を審議する歳出委員会に連邦予算局の局長などが出席するのも一般の証人としてであり、せいぜい数回である。筆者も、米国大使館に出向経験のある財務省の先輩から、予算教書担当の課長が、予算教書提出の直後、これから議会での予算審議が始まるというときに休暇を取って家族旅行に出かけたので驚いたとのエピソードを聞かされたことがある。*4) 「政治制度論」白鳥令編、芦書房、1999、pp87-94。以下の記述は、もっぱら同書によっている。*5) 南北戦争に従軍した最後の大統領。米西戦争でフィリッピンを植民地化しグアムを併合した。ハワイ共和国の併合も行っている。*6) ローズヴェルトは、日露戦争のポーツマス条約の仲介を行い親日家として知られているが、その後は日本への警戒心を高めたといわれている。パナマ運河の着工も行った。対の政党の場合にはほとんど顧みられないこともあるものである*3。そのように、建国当初弱かった米国大統領が強い大統領として立ち現れたのは、まずは南北戦争のときであった。アメリカ思想史の本間長世元東大教授によれば、米国の分裂を避けるための戦争(南北戦争)を指揮するためにリンカーン大統領は、それまで認められなかった権力の集中を図ったのである。しかしながら、それにはすぐに揺り戻しが来た。ドナルド・L・ロビンソン教授*4によると、「リンカーンは国の政治の舞台をすばやく支配することができたが、それは(南北戦争という非常事態において)憲法の制約を突き破り、独裁的な権力を行使することによってのみ可能だったのである」。その後の揺り戻しで、「19世紀のほとんどの間、合衆国はウッドロー・ウィルソンが1885年の著作において適切にも呼んだ「議会政府」なるものを経験していた。(中略)19世紀における大統頷は新郎の母のように『毛織物をまとい、沈黙を守る』ことを期待されていた」のである。ロビンソン教授によると、20世紀における米国大統領の地位の向上は、マッキンレー大統領*5(1897-1901)の暗殺というアクシデントによってその職についたセオドァ・ローズヴェルト大統領*6(1901-08)に始まる。ローズヴェルトは、国民の正当な分け前という「スクウェア・ディール」のスローガンの下に、鉄道を支配していたモルガン財閥を反トラスト危機対応と財政(5)リーダーシップ確立の歴史国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇24 ファイナンス 2020 Oct.SPOT

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