ファイナンス 2020年9月号 No.658
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れられ、最期を迎えた。この水牢は扉1枚でパシグ川と接しており、干潮で水位が下がると亡骸は川に流れ出るようになっていた。下の写真の「Dungeon」が今に残る水牢である。この水牢で600人以上が殺害されたという。この場所に来ると、全ての言葉を失うしかない。彼方に見える川面を見つめ、幾分間も手を合わせた。サンチャゴ要塞の水牢日本海軍は、陸軍と別行動を取ってまで市街戦の方針を決め、そして勝機が完全に無くなった後もフィリピン人への残虐な行為を続けた。何が彼らを駆り立て、そして彼らは滅びに至るまで何を守り何を得ようとしていたのか。そして、フィリピンに住んでいる日本人として、何より重要な疑問は、フィリピンの人たちは、本当に日本のことを許してくれているのか、ということであった。フィリピンの人に聞くと、「We can forgive, it is history now」と言ってくれる。もうそれは過去のこと、私たちは許します、と言う。戦後75年、フィリピンと日本の間には戦後賠償交渉を始めいろいろなことがあり、また日本の先人たちの様々な行いもあり、そして何よりもフィリピンの人の優しさや宗教的な寛容さがあり、そう言ってくれるのだ。しかし、多くの人は、本音では、「We cannot forget, though」と思っていることを、我々は忘れてはならない。彼ら彼女らにとっては、許せるが、忘れられないことなのだ。*  *  *  *  *日本への帰国が迫る2018年の夏、同じアパートに住んでいたADBの日本人仲間が、近所の旧日本軍の拠点のあった地下壕を探し出し、連れて行ってくれた。この地域は、今はFort Bonifacioと呼ばれ、多くの高層アパートやショッピングモールが立ち並ぶ高級住宅街であるが、マニラ市街戦当時はフォート・マッキンリーと呼ばれ、桜兵営と呼ばれる日本軍の拠点の1つがあり、この地下壕に司令部を移した時期もあった。その入口が、我々の前で、今、口を開けている。桜兵営の入口数段の階段を降りると、入り口は閉ざされておりそれ以上入れない。周りには何の立て札も説明も無い。草が繁っているだけである。そして草の向こうには、「マーケット・マーケット」という我々が時折買い物に行くモールが見える。こんな近所に桜兵営があるとは。ここから千人もの日本兵がマニラ市街に向けて出撃して行ったのだ。この場所は、今この町に住む日本人には全く知られていない。探し出してくれた我が同僚の努力を多とするしかない。ここに佇みながら、考えた。これは何を意味するのだろう。もしフィリピンの人たちが未だに日本を憎悪していたら、この兵営跡を徹底的に破壊するか、逆に徹底的に保存して残虐さを指弾する立て札を立てるのではないか。放置されているこの様は、フィリピンの人たちの割り切れない気持ちを表しているのだろう42 ファイナンス 2020 Sep.SPOT

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