ファイナンス 2020年9月号 No.658
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4フィリピン人と日本人「新・エイゴは、辛いよ。」は、フィリピンでの暮らしから始まった。そして最後も、フィリピン人のことで締め括りたい。余り知られていないことだが、太平洋戦争末期、1945年2月、日本海軍はマニラを死守せんと徹底抗戦の道を選び、米国軍との市街戦においてフィリピン人に10万人もの犠牲者が出た。多くの抗日ゲリラに加え、夥しい数の一般市民も犠牲になった。死者数は、市街戦での日本軍の死者1万数千人を大きく上回るのである。フィリピンの人たちは、本当に日本を許してくれているのだろうか?前号で書いたパラオと、フィリピンは、隣国でありながら、太平洋戦争時の状況は以下の点で大きく異なる。1)パラオは第一次大戦後に日本の委任統治領になり日本が25年間行政に当たっていたが、フィリピンは米国の治政下にあり日本は外部からの侵入者であった。2)パラオの激戦地ペリリュー島では日本軍は住民を疎開させたが、フィリピンではあえて住民を巻き添えにする市街戦を選んだ。3)パラオでの戦闘では日本軍は極めて統率が取れていたが、フィリピンでは陸軍・海軍が袂を分かち通信網も分断され組織的な戦闘は不可能であった。「マニラ市街戦」に至った経緯と日本軍の取った行動について仔細に記すと以下のとおりである。1944年12月までにレイテ沖海戦・レイテ島の戦いで日本軍が決定的な敗北を喫した後、米軍がルソン島に上陸しマニラを目指すことが必至の情勢の中、「マレーの虎」と言われた山下奉文陸軍大将はマニラを放棄し戦闘の場を山中に移す方針を決定。しかし海軍はこれに同意せず、岩淵三次海軍少将を中心に「マニラ海軍防衛隊」を編成し、市街戦の態勢を作った。(戦闘員の中には、レイテ沖海戦等での沈没艦(戦艦武蔵を含む)の乗員生存者も含まれていた。)陸軍と袂を分かった上で、70万人のマニラ市民を巻き添えにする慣れない市街戦を海軍が選んだこと、これが1つ目の問題である。2つ目の問題は、日本軍による夥しい数のフィリピン人への殺害行為である。2月3日、米国陸軍の大部隊がマニラに突入し、市街地に立てこもった日本軍に対し戦闘を開始。日本軍は、官庁・病院などの建物に入り徹底抗戦を図った。この過程で抗日ゲリラまたはその支援者と疑われる住民を日本軍は大量に殺害。(更に規律と統率を失った日本軍は中立国スペイン人、同盟国ドイツ人も多数殺害。)市街戦を展開する日本軍に対し米国軍が重砲火による砲撃を開始した後は、日本軍は一般市民を人間の盾として要塞に立てこもる等の行動を取り、結果、更に一般市民の犠牲者は増加した。完全に包囲された日本軍は万策尽き、2月26日に岩淵少将は司令部で自決。3月3日、米国軍はマニラでの戦闘終結を宣言した。(注) 上記解説は、中野聡「マニラ市街戦―その真実と記憶―(WEB版)」及びNHKエンタープライズDVD「証言記録 マニラ市街戦~死者12万 焦土への一ヶ月~」等を参考にさせて頂いた。岩淵少将が自決した司令部のあった建物(現在は自然史博物館)フィリピン人死者は10万人、そのうち6割は日本軍による殺戮、4割は米国軍の重砲火による死亡と推定されている。もちろん、一般市民が巻き添えになることを承知の上で砲撃を開始した米国軍の行動についても、その是非は厳しく検証されるべきである。しかしそれはその前に市街戦開始を決めた日本軍の責任を減じるものでは無い。自分も某日系ツアー会社が催すマニラ戦跡ツアーに参加し、市街戦の跡を歩いた。この中で、日本軍が最後に追い詰められ立てこもったサンチャゴ要塞の戦跡は、日本人であれば見なければならないものである。日本軍は、既に銃弾火薬が殆ど底をついており、ゲリラの疑いがかけられた者は、この要塞の中の水牢に入 ファイナンス 2020 Sep.41新・エイゴは、辛いよ。SPOT

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