ファイナンス 2020年8月号 No.657
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のだが、なんと四半世紀前に地方勤務していた時の名刺だ。で、ついに今の自分の名刺が出てこないまま目が覚めた。汗びっしょりだ。何とももどかしく、いら立つ夢だった。こういう夢を見るということは、自分には隠れた癇性があって日常これを抑圧しているということかと思ってみたりする。先日読んだ本の影響かな。「人生に効く漱石の言葉」(木原武一著、新潮選書)という本である。「心」の一節が引用されていた。主人公の「先生」が「本当を言うと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿々々しい性分だ」と言って笑う場面だ。私も精神的癇性なのかなあ。しかし同書の著者が指摘するように、「心」では「先生」の「精神的に癇性」について、当初は「俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖という意味か、私にはわからなかった」が、物語の展開とともに後者であることがわかる。私の夢のイライラとは、ちょっと違うようだ。そもそも「先生」は、異常なまでの清潔好きで、食卓にはいつも洗濯したての真っ白なテーブルクロスを敷く人物である。テーブルクロス代わりに新聞紙を広げてその上で飯を食い、食べ終わると食べかすごと丸めて捨てる私と、共通点はなさそうだ。まあ夢の内容をあれこれ考えても、文字通り夢物語を論ずるのであるから所詮は雲をつかむような話。とはいえ、あの着替えができないいら立ちや、名刺が出てこないもどかしさは、何か爆発できない癇癪をこらえていることに由来するのではなかろうか。同書には、漱石が、夕飯の折に子供が歌をうたったのがうるさいとお膳をひっくり返して書斎に入ってしまう話が出てくる。御多分に漏れず私も家の中でいらっとすることは少なくないが、あの不快な夢は、見知らぬおかしな登場人物がいろいろ出てくるところからすると、家庭内由来だけではないような気がする。節度を失いタガが外れかかった時世時節を憂い、自らの無力を嘆いてのいら立ちの産物と解しておこう。馬齢を重ね齢還暦を疾うに超えた私でさえ、嫌な夢を見るほどなのであるから、負担先送りの付け回しを受ける若い世代のいら立ちはいかばかりかと思う。待て。危うい、危うい。夢物語で時世を論じてしまうところだった。夢物語は気をつけないとひどい目に遭う。「戊戌夢物語」で幕政を批判した高野長英は蛮社の獄で永牢に処された。その後牢屋敷の火災切放(きりはなち)に乗じて脱牢逃亡して伊予宇和島藩に匿われ、蘭書を翻訳したり兵制洋式化を助言したりした。やがて硝酸で顔を焼いて人相を変え、江戸に潜伏して町医者を営んだが、脱獄の数年後幕府の捕吏に襲われ自殺した。…幕末の先覚者の偉大な著作を私如きのつまらん夢に絡めて茶化すとは慎みのないことであると反省する。閑話休題。昔の人は「夢は五臓の疲れ」と言った。落語の「鼠穴」は、土蔵に鼠の開けた穴があるのを気にして、火事でもあったらその穴から土蔵の中に火が回って大変だと心配するあまり、その晩火事で土蔵が焼けて財産を失う夢を見るという噺だ。落ちは「夢は土蔵(五臓)の疲れだ」となる。私の夢も五臓の疲れであったのかもしれない。五臓六腑の疲れを取るには、睡眠と栄養が大切である。ひどい夢だったが、睡眠時間は十分だ。栄養をしっかり取るために、まずは今晩の献立を決めて買い物に行こう。そういえば、先日テレビでワシントンの官庁街に並ぶフードカーの話題が出ていた。調理用に改造したバンの中で昼食用の弁当を調理して売るのである。コロナ以前の映像ではあるが、人気店は行列が出来ていて飛ぶように売れている。その中のペルー料理の弁当が美味しそうだった。2センチ角5センチ長ぐらいに切った牛肉を唐辛子と炒めて、玉ネギとトマトを加え、醤油とワインビネガーと生ライムジュースで味付けする。それをライスとフライドポテトを盛った容器にどっと載せて完成。ロモ・サルタードというやつか。なぜ醤油なのだろうと思うが、屋台の主人曰く、フュージョン(融合)こそペルー料理とのこと。19世期にプランテーション農園に広東省から送り込まれた苦力たちが醤油を持ち込んだと言われる。牛肉をアンデス原産のトマトと中央アジア原産の玉ねぎとともに、インド原産の胡椒と中南米原産の唐辛子と地中海原産のクミンシードで風味をつけて炒め、中国由来の醤油と東南アジア原産のライムで味付けするのであるから、まさにフュージョンである。牛肉とトマトとはいかにも栄養がつきそうだ。私も ファイナンス 2020 Aug.71新々 私の週末料理日記 その39連載私の週末 料理日記

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