ファイナンス 2020年8月号 No.657
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加賀野菜を中心に約180の店が軒を連ね、観光客も大勢訪れる。現在は複合商業施設「かなざわはこまち」の場所(図中4)には昭和5年(1930)に三越が出店。後に地元資本の丸越百貨店となる。昭和48年(1973)、近江町市場の対面(図中5)に市の再開発事業で当時市内で最も高い18階建の「金沢スカイビル」ができた。低層棟には丸越百貨店が移転し「名鉄丸越」となった(現在は「めいてつ・エムザ」)。武蔵ヶ辻の再開発が一段落すると、片町に隣接する香林坊エリアの再開発が始まった。昭和60年(1985)、香林坊109が完成(図中6、現在の東急スクエア)。翌年、その向かい側に完成した香林坊アトリオに大和百貨店が本店を移した(図中7)。その約10年後の平成7年(1995)年には片町に代わり「香林坊大和前百万石通り」が最高路線価地点になった。郊外の新都心と旧城下町の町並み金沢駅の開業は明治31年(1898)。片町から2kmほど離れ、城下町のまさに外縁に置かれた。急速な発展の背景に北陸新幹線の延伸計画があった。新幹線の整備とともに再開発が進み、高層ホテルや大型店が集積。延伸開業を5年先に控えた平成22年(2010)には最高路線価が「金沢駅東広場通り」に移った。駅の反対側は長らく閑散としていた。駅の「西口」ができたのは昭和60年(1985)。駅西から金沢港に向けて幅50mの直線道路が敷設され、これを新たな都市軸に新都心の開発が進められた。旧城下町にあった業務機能が徐々に移っている。石川県庁は平成15年(2003)に移転。地元地銀の本店、NHKも駅西口に移った。明治42年(1909)の進出以来110年以上も香林坊に店を構える日銀も移転する予定だ。バイパス道路に連なるエリアに機能性が高い新たな中心市街地ができた。他方、旧城下町からは元々あった拠点機能が郊外に続々移転。跡地は街の魅力を高める公共施設になった。金沢城内にあった金沢大学丸の内キャンパスが平成7年(1995)に郊外移転。跡地は県が買い取って城址公園にした。史実に基づき菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋などの城郭建物を再建。外堀の一部や内堀を復元した。玉泉院丸庭園では色紙短冊積のような芸術性の高い石垣群を眺められるようになった。平成20年(2008)には金沢城跡が国の史跡に指定された。新都心に移転した県庁も以前は金沢城の縄張内にあったが、大正13年(1924年)竣工の旧庁舎は保存され「しいのき迎賓館」となった。その向かい側には現代アートの展示で異彩を放つ金沢21世紀美術館があるが、ここは元々金沢大学附属中学校・小学校・幼稚園があった場所だ。こうして旧城下町は屋敷町、職人の町だったかつての町並みに立ち返り、歴史的な佇まいを深めている。金沢の場合、惣構の遺構、武家屋敷と町屋、茶屋街が金沢城を中心に面的につながり、国内外から人を集める観光都市としての価値も高まった。金沢城公園の復元は着々と進み、この7月には尾山神社側に鼠ねずみたもん多門、鼠多門橋が完成。今後、儀礼や政務を行った二の丸御殿の再建に向け調査検討を進める予定だ。平成30年の金沢城公園の入園者数は217万人とこの10年で倍増した。着々と進む復元事業、その他のまちづくり施策が新幹線の開通と相乗効果を生み出している。図2 広域図出店。後に地元資本の丸越百貨店となる。ダイエーが進出した時期もあった。昭和48年(1973)、近江町市場の対面(図中5)に市の再開発事業で18階建の「金沢スカイビル」ができた。完成当時は市内で最も高かった。低層棟には丸越百貨店が移転し「名鉄丸越」となった(現在は「めいてつ・エムザ」)。 武蔵ヶ辻の再開発が一段落すると、片町に隣接する香林坊エリアの再開発が始まった。昭和60年(1985)、香林坊109が完成(図中6、現在の東急スクエア)。翌年、その向かい側に完成した香林坊アトリオに大和百貨店が本店を移した(図中7)。その約10年後の平成7年(1995)年には片町に代わり「香林坊大和前事業百万石通り」が最高路線価地点になった。この近辺の百万石通りは北国街道と重なる。 郊外の新都心と旧城下町の町並み 金沢駅の開業は明治31年(1898)。片町から2kmほど離れ、城下町のまさに外縁に置かれた。急速な発展の背景のひとつに北陸新幹線の延伸計画があった。新幹線の整備とともに駅前の再開発が進み、高層ホテルや大型商業施設が集積。延伸開業の3年前、平成22年(2010)には最高路線価地点が駅前に移った。 駅の反対側は長らく閑散としていた。駅の「西口」ができたのは昭和60年(1985)。駅西から金沢港に向けて幅50mの直線道路が敷設され、これを新たな都市軸に新都心の開発が進められた。旧城下町にあった業務機能が徐々に移っている。石川県庁は平成15年(2003)に移転。地元地銀の本店、NHKも駅西口に移った。明治42年(1909)の進出以来110年以上も香林坊に店を構える日銀も移転する予定だ。バイパス道路に連なるエリアに機能性が高い新たな中心市街地ができた。 旧城下町の拠点機能は新都心以外の郊外にも移転した。もっとも、ここで空洞化を懸念するのは早計だ。。元々、金沢城には金沢大学の丸の内キャンパスがあった。平成7年(1995)に郊外移転し、跡地は県が買い取って城址公園にした。史実に基づき菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋などの城郭建物を再建。外堀の一部や内堀を復元した。玉泉院丸庭園では色紙短冊積のような芸術性の高い石垣群を眺めることができる。平成20年(2008)には金沢城跡が国の史跡に指定された。新都心に移転した県庁も以前は金沢城の縄張内にあった。大正13年(1924年)竣工の旧庁舎は保存され「しいのき迎賓館」となった。その向かい側には現代アートの展示で異彩を放つ金沢21世紀美術館があるが、ここは元々金沢大学附属中学校・小学校・幼稚園があった場所だ。 拠点機能は旧城下町から郊外に次々と移転したが、跡地は街の魅力を高める公共施設になった。旧城下町はお屋敷町、職人の町だったかつての町並みに立ち返り、歴史的な佇まいを深めている。金沢の場合、惣構の遺構、武家屋敷と町屋、茶屋街が金沢城を中心に面的につながることで、国内外から人を集める観光都市としての価値も高まった。金沢城公園の復元は着々と進み、この7月には尾山神社側に櫓状の鼠多門ねずみたもん、鼠多門橋が完成。今後は、儀礼や政務を執り行った城の中枢、二の丸御殿の再建に向け調査検討を進める予定だ。平成30年の金沢城公園の入園者数は217万人とこの10年で倍増した。着々と進む復元事業が新幹線の開通、インバウンド集客との相乗効果を生み出している。 県庁新都心金沢駅西大型モール大型モール白山IC金沢東ICプロフィール大和エナジー・インフラ 投資事業第三部副部長 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。2018年から現所属に出向中出所)地理院地図から筆者作成 ファイナンス 2020 Aug.67路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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