ファイナンス 2020年8月号 No.657
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巻頭言「狂言は世界の心の 架け橋」狂言和泉流宗家史上初女性狂言師 十世和泉 淳子/三宅 藤九郎芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感を成さん事、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。ー花伝書の中の言葉である。今日的な状況下で心が和らぐ機会は稀であろう。また今だからこそ、芸能の存続や存在意義についても、既存の感覚とは異なる視点から議論がされている。ある意味、喜ばしい事である。私、和泉淳子は能と共に日本の芸能の原点と言われる狂言和泉流の19世宗家故和泉元秀の元に生を受け、初の女性狂言師の道を歩んできた。幸いなことに再来年で50年となる。和泉流の流是に女人禁制の文字は無い。しかし残念ながら、今まで女性の狂言師は誕生しなかった。狂言の持つ歴史的社会背景を思うと、なかなか難しかったのであろう。けれどもその中にあって、父は女性にも専門家になる道を開き、変わらぬ修業をさせてくれた。1歳半で稽古を始め、3歳で「靭猿」の子猿の役で初舞台を踏んでからは、ひたすら狂言に打ち込んだ。私は日頃、人は必ずお役目を頂いてこの世に生を受け、生かされて生きているものだと考えている。誰にも果たすべき事がある。勿論私にもある。今年582年を迎える和泉流宗家は、生存・伝承・普及を三本柱に「日本の狂言を世界の狂言に!」というスローガンのもと、昭和63年より13ヵ国30数都市で狂言公演を行なってきた。アジア、アメリカ、ヨーロッパのいずれの国々も表現こそ異なるが、日本で生まれ育まれた笑いの芸術を拍手で受け入れて下さった。国、言語、肌の色、様々な違いを超越し共感できる精神性とエネルギーが狂言にはある。だからこそ、自国だけに留まらず日本国、日本人を深く知っていただく為にも、感性の地球共通語となり得る狂言を、妹と二人の子供(狂言師)と共に、和泉流宗家筆頭控え家当主として伝えていこうと思う。十世三宅藤九郎です。祖父・人間国宝故九世三宅藤九郎の指名により和泉流筆頭職分家である三宅藤九郎家の名跡を十五歳で継承し、以来男性の名のもと舞台を勤めていますが、姉である和泉淳子と同じく女性狂言師です。同じくとはいえ、何をするにも「初」がついて回り、後に続く女性達への責任も背負わされ、順風も逆風も真正面から受け止めねばならない姉とは重圧の点で随分と異なっていたためでしょうか。伝統を固く守りながらも、狂言の魅力が歴史や先入観の檻から飛び出して世界の人々を繋ぐことを幼い頃から夢見ていました。師匠である亡父は、宗家として芸の正統な伝承に努めると同時に「男性、女性という前に一人の人間として、人間狂言師として舞台に立ちなさい」と、今から三十年以上前の完全な男性社会であった狂言の世界にあって、性差を超えた個を尊重する考えを修業の中で示してくれました。これは私の生き方の原点ともなっています。狂言は日本の伝統芸能において唯一の喜劇と言われ、また「笑いの芸術」とも呼ばれます。単なる笑いではなく芸術と称されるのは、そこに人間が生きる上での真理が、笑いに昇華され描かれているからです。真理は時代や国境を超えて人を結びます。そして人間はどんな状況にあっても笑うことを選択できると、狂言は600年前の日本人の力強いメッセージを伝えてくれているように思います。世界的にこれまでの常識が変わりつつある昨今。私達が抱える戸惑いや不安も既存の枠組みへの執着も、長い歴史の中で見ればごく限られた時間の「世の常」であると、数多の時代と災禍を乗り越えた狂言の笑いがより一層高らかに、世界を包むように響くことを願い、筆を擱きます。ファイナンス 2020 Aug.1財務省広報誌「ファイナンス」はこちらからご覧いただけます。

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