ファイナンス 2020年8月号 No.657
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的な地で、山々に囲まれ、明るく陽光を反射する松川に灌漑されています。いたるところに豊かで美しい農村があり、彫刻を施した梁とどっしりした瓦屋根の大きな家々が、それぞれ自分の敷地に柿やざくろの木々に埋もれるように建っています。」バードはさらにその直後、上山から山形に入った印象を「山形県はまれにみる繁栄した進歩的で野心的な地方だという印象をうけています。上山を発ってすぐに入った山形平野は人口が多く、耕地化が非常に進んでいて、広い道路は交通量も極めて多く、裕福で開化されている(wealthy and civilised)ようです。」と記しています。東京から函館を歩いたバードにここまで雄弁に言わしめた当時の(今も)山形の豊かさがしのばれます。2「奥州の商都」このような山形の豊かさの礎の一つとなったのは、江戸初期に質・量ともに日本一となり、最盛期には全国の50-60%を占めた*4とされる紅花ではなかったかと推測されます。江戸時代後期には当時の山形は奥州の商都と呼ばれ、紅花取引を基軸とする一大中継商業地であったとされます*5。最上川の舟運で山形と京都や大阪が北前船によって深く結びつき、長谷川家をはじめとする紅花商人たちが活躍したことも相まって、産地が拡大されていったといわれています。紅花からは黄色と紅色の二色を抽出することができますが、そのうち99%以上が黄色、残りのわずか1%未満が紅色です。紅色からとれるわずかな紅の原料となる「紅もち」の価格は「コメの百倍、金の十倍」とうたわれるほどだったそうです。私は山形美術館で、江戸時代の紅花製法の過程を丹念な筆致で描いた六曲一双の見事な屏風の作品にめぐりあうことができました。横山崋山が紅花の産地をめぐる取材旅行をはじめ、少なくとも6年以上かけて完成させた大作で、前出の長谷川家から寄贈されたものです。同館主任学芸員の白幡菜穂子氏が山形新聞に寄稿された解説によれば、右隻には種まきから花摘み、紅餅の加工を、左隻には荷造りや出荷などが、人々の*4) 山形観光情報センター「心が和む紅花のみち」*5) 長谷川吉茂氏「長谷川家と美術コレクション」『(山)長谷川コレクション:日本美術の名品─江戸から明治まで』(山形美術館、平成30年)。*6) 白幡菜穂子氏「横山崋山『紅花屏風』登場人物220人 精緻に」山形新聞 平成30年12月19日、11面。*7) 全農ライフサポート山形ウェブサイト(https://www.z-lsy.co.jp/buisiness/fruit/.令和2年7月19日最終閲覧)*8) 山形県企画調整部「やまがた読本」(平成7年3月)生活とともに活写されており、同氏が薦められているように単眼鏡をとおして描かれている人物の表情をいつまでも眺めていたくなるような作品でありました。*63「赤い宝石」山形の紅といえばもう一つ、冒頭にふれた全国生産量の約70%を占め、日本一の生産量を誇るさくらんぼではないかと思われます。山形では「山形県の小さな恋人」「赤い宝石」と称されています*7。さくらんぼの歴史について、平成7年「やまがた読本」によると、さくらんぼが山形県に導入されたのは、明治9年、アメリカ、フランスなどから内務省が輸入した苗木を山形市・米沢市等に植栽したのがその走りといわれ、その後気候風土等が適していることや、篤農家のたゆまぬ努力により県内に定着し普及してきました*8。より詳しくは、「おいしい山形推進機構」によれば「当時は全国で試作されたが、山形県以外ではほとんどが失敗し、霜害・台風被害の比較的少ない本県だけが実績をあげた。その後さくらんぼ栽培は山形県内で普及し、官民一体となっての努力も実り、全国生産量の約7割を占めるまでの『さくらんぼ王国』となった」という歴史があります。さくらんぼの中で、味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」で、県内栽培の約7割を占めています。そのさくらんぼの誕生について、同機構のウェブサイトを引用します。「佐藤錦の生みの親は、東根市の篤農家、佐藤栄助氏(1867~1950)。氏は、さくらんぼの品種改良に夢をかけていた。というのも、明治時代は『日の出』『珊瑚』『若紫』などを栽培していたが、せっかく収穫しても日持ちが悪くて腐らせたり、出荷の途中で傷んでしまったりと、当時は品種的に悩みが多かったからだ。1912年、いよいよ長い試練が始まった。栄助氏は、日持ちはよくないが味のいい『黄玉』と、酸味は多いが固くて日持ちのいい『ナポレオン』をかけ合わせてみる。この未知なるものはやがて実を結び、氏の夢をはらみながら、すくすくと育っ ファイナンス 2020 Aug.41山形の魅力、紅をたどってSPOT

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