ファイナンス 2020年8月号 No.657
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ないのです。そして私も、来年(2018年)でガイドを引退しようかと思っています。誰かこの仕事を引き継いでくれる人が見つかれば良いのですが」と言われた。零戦の残骸(澤田康幸氏撮影)このままではいけない。そう思った。後日談だが、その後、マニラの日本人の友人たちがペリリュー島に行ったと教えてくれた時、ガイドはどうしたかと聞くと、元自衛官の方が懇切丁寧にガイドしてくれた、と言う。無事後継者が見つかったのだろう。安堵した。(注) 上記マツタロウ大使のHPをずっと下まで行って頂くと、「パラオ25周年記念行事実行委員会の紹介」という項目の写真に菊池さんの姿があり、肩書が「大統領特別顧問(観光プロモーション)」と書かれている。日本と行ったり来たりの生活だろうか。引き続きパラオのために尽力されているのは心強い。中川大佐が自決した洞窟にも行った。急峻な丘を登ったところで、樹木が密に繁り、ここなら戦車は近づけない。しかし周囲の全てを包囲され、弾薬食糧全て尽き、この地で1944年11月24日、「サクラ、サクラ」とパラオ本島の地区集団司令部に打電の上、中川大佐始め幹部は自決したのである。僅か50数名に減った健在な将兵は、ここを出てそれまで禁じられていた玉砕戦法を一気呵成に展開せんとするも短時間で鎮圧され、11月27日をもって組織的な抵抗は完全に終わった。中川大佐が自決した洞窟と慰霊碑(澤田康幸氏撮影)この地で手を合わせながら、考えた。米軍側の夥しい死傷者の数は上に記した通りであるが、ここまでして、日本と米国は、何をこの島で勝ち取ろうとしたのか。ペリリュー島での戦闘で、米軍に多大の損害を被らせたのは軍事的には大成果であった。他方で、この島での戦闘が続いている間、10月には米国軍はペリリュー島の活用を断念し、大部隊を直接レイテに向かわせ、10月20-25日にレイテ沖海戦に勝利し、フィリピン本土上陸を果たす。フィリピンで激しい攻防戦が既に展開される中、この鬱蒼とした森の中で、日本兵たちは何を求め、何を願って散って行ったのか。フィリピンへの前進基地としての意義を失ったパラオで、米兵たちは何を得ようとしたのか。日本・米国とも、このような終わりの無い戦闘に追い込んでいったのは、何だったのか。もう1つ知りたいと思ったのは、当時のペリリュー島住民の思いである。これだけの激しく絶望的な70日以上の戦闘の中で、ペリリュー島の現地住民の犠牲者はゼロだったと聞いた。日本軍が戦闘開始前にパラオ本島に強制疎開させたためである(注)。戦後、その配慮に感謝したペリリュー住民は多かったようだ。しかし、ペリリュー住民にとっては、故郷の島が戦闘の結果甚だしく破壊され荒廃したのもまた事実である。(注) 何らかの理由で疎開できず亡くなったペリリュー住民も若干名いたとの情報もある。38 ファイナンス 2020 Aug.SPOT

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