ファイナンス 2020年8月号 No.657
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アンガウル島パラオ本島(バベルダオブ島)ペリリュー島(1)ペリリュー島での戦闘―事実関係ペリリュー島はフィリピンとパプアニューギニアの間に位置し、日本軍はラバウル等撤退後にこの島を重要拠点として1944年4月から防衛強化を始めた。米軍は、フィリピン奪回のために戦略的にまずペリリューの飛行場を奪うことが重要と考え、1944年9月15日に上陸を開始した。攻撃を行ったのはガダルカナルで顕著な戦績を上げた米軍第一海兵師団であり、当時の師団長はこの小さな島を2-3日で陥落させると豪語していた。数日の戦闘で飛行場は確保したが、日本軍は島の山地(最高約90m)の自然洞窟等に構築した陣地から反撃し徹底抗戦した。この戦闘の前に行われたサイパン等のマリアナ諸島の戦いで敗北し、最後は玉砕で終わった経験から、ペリリュー守備隊の指揮を執る中川州男(くにお)大佐には、1つの重要な指示が出されていた。決して玉砕せず極力持久の上、米軍の戦力をペリリューに留め本土方面への攻撃を遅らせるべしと。これを日本軍守備隊は極めて忠実に実施した。事前に縦横に掘り進めた洞窟陣地の無数の隙間や穴からの苛烈な砲撃射撃に、米軍による掃討は進捗せず、世界最強と謳われた第一海兵師団は夥しい死傷者を出し、10月下旬には島からの撤収・陸軍第81歩兵師団との交代を命じられる。これは日本守備隊にとって大きな戦果となった。しかしその後、山地の日本軍の陣地は新師団により逐次奪取され、一切の補給を絶たれ11月24日に周囲を包囲された中川大佐は自決、27日に米軍は掃討作戦の終結を宣言した。当初の戦力は米軍約4万人余、日本軍は1万数百名。日本軍は200名程度の捕虜と、(終戦後も1947年まで洞窟に潜んでいた)生存者34名を除き、1万余もの死者を出した。これに対し、米軍は、戦死者2,000人以上、戦傷者8,000人以上であり、「死傷者」というくくりで見ると日米ほぼ同数という結果であった。小さな島で日本軍が長期持久の方針で2ヶ月以上にわたり抵抗を続けることができたことは、日本の島嶼防衛方針に大きな影響を与え、その後の硫黄島等の防衛戦に生かされることになる。(2)ペリリュー島訪問自分が泊まっていたホテル(Palau Pacic Resort)のツアーデスクで日帰りペリリュー戦跡ツアーの予約をし、高速ボートで約1時間のペリリュー島に向かった。菊池さんというプロの日本人ガイドが付いてくれ、実に懇切丁寧に解説をしてくれた。島に着いてすぐ、「千人洞窟」に案内して頂き、中を歩いた。ここで日本兵の多くが火炎放射器等で命を落とした。割れたビール瓶や焼けて黒くなった飯盒が散乱している。更に車に乗って旧海軍司令部の建物(爆撃で破壊され骨格が残るのみ)、日米が争奪戦を演じた滑走路、米軍が上陸したオレンジビーチ、更に天皇皇后両陛下が手を合わせられた西太平洋戦死者の慰霊碑等を訪れる。滑走路脇には破壊された日本軍の軽戦車が放置されている。また、時折道を逸れては菊池さんが茂みに分け入り、ジャングルの中で撃墜された零戦や米軍の貨物機の残骸を見せてくれる。こうした残骸の殆どには、標識も説明版も何もなく、保存の工夫も無く、このままでは朽ち果てるだけに見えた。菊池さんにそのことを言うと、「そうなんです。全く予算が無いのです。しかも悪いことに、何がどこにあるか、全部知っている人は私しかい日本軍軽戦車の残骸(澤田康幸氏撮影) ファイナンス 2020 Aug.37新・エイゴは、辛いよ。SPOT

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