ファイナンス 2020年7月号 No.656
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私の週末料理日記その386月△日日曜日新々週末の朝の日課の散歩と買い物を済ませて、一風呂浴びて新聞を一通り眺めたら、何やら腹がすいてきたので、早お昼に冷やし中華を食べる。具には既製品のスモークした鶏ささみと茹で卵ときゅうりとキムチ。唐辛子を漬けた酢と市販のごまだれと醤油を適当にかけまわして食べれば、いと美味し。思わずもう一玉麺を茹でる。腹がくちくなれば横になりたくなるが、ここで昼寝に入ると夜眠れなくなる。テレビでも観ようかと思うが、女房子供が情報提供番組というのだろうか、私にはおよそ興味がわかない番組を延々と観ている。仕方がない。ここで下手に文句をつけると、今後のテレビのチャンネル争い上不利になる。最近コロナ自粛でほぼ毎日夕食を家でとるものだから、晩のテレビのチャンネルの主導権争いは熾烈である。私はニュースと時代劇しか観ないのだが、家の者たちは愚にもつかないバラエティ番組を見たがる。夕食後に、私がくつろいでノーマルサイズ(画面の横縦比4:3。現在の16:9のワイドサイズのテレビ画面で見ると画面の両側に黒い余白部分がでるサイズ)で収録された昭和の時代劇を観ていると、舌打ちとともに「毎度同じ筋なのに何が面白いんだ」と吐き捨てるような非難が浴びせられる。「以前のように飲み歩いて遅くなってから帰ってほしい」とまで言われるが、かえってそういう厳しい環境下ほど鬼平犯科帳や座頭市の世界により深く没入できるというものだ。たしかにテレビの時代劇は、基本的に勧善懲悪、一話完結なので、似たような筋で先が見える展開になりやすい。しかし、そういうお決まりがあるから、時代劇は安心感をもって観ていられるのだ。一定の枠の中で、筋書きにどう趣向が凝らされているか、人情の機微がどう織りなされているか、役者の個性・持ち味がどう活かされているかといったあたりが、テレビ時代劇鑑賞の醍醐味なのである。先日観たのは、堅物の筆頭老中が「ご改革」に邁進して奢侈贅沢禁止令を発し、酒や高級衣料から櫛かんざし、芝居や貸本、見世物興行までご禁制になるという話だった。その裏で、悪知恵たけた町奉行と大商人が、闇で酒やら何やらを売ってあくどく儲けるわけだが、当然のことながら主人公がバッタバッタと退治する。結末は、主人公に諭された老中が「ご改革」を緩和して、庶民のささやかな贅沢は復活されるという結構なストーリーなのであるが、途中の主人公と筆頭老中の会話が面白かった。真面目な主人公は、「悪法でも法は法」と、闇で酒を買ったり、隠れて見世物興行をする周囲をたしなめる一方で、筆頭老中に「庶民が一日の勤労の疲れを忘れるために茶碗一杯の酒を飲むのが、許されない贅沢とは思えませぬ」と問う。老中は「酒は飲まなくても生きていける」と答える。さらに「わずか20銭の木戸銭の興業がなぜ禁止されねばならぬのですか」と問うと、答えて曰く「不要不急」。劇中では老中が、規制が闇を生むという禁止令の弊害を悟り、演芸の隠れ興業に庶民が喜ぶ様を見て娯楽の意義を知って考えを変えるのだが、この問答は考えてみるとなかなか難しい。財政であれ個人の家計であれ、赤字であれば収入を増やすか支出を削るしかない。収入が増やせなければ支出を抑えるほかなく、何を切り詰めるか優先順位づけしなければならない。政府の支出なら、政府が優先順位をつけるのが当然だろうが、家計すなわち個人消費の優先順位づけは難しい。政府が一律に決めてよいのだろうか。不要不急の基準は何か。奢侈品と生活必需品を区分する尺度は何なのか。 ファイナンス 2020 Jul.69連載私の週末 料理日記

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