ファイナンス 2020年7月号 No.656
67/86

他にも、地元地銀の本店や大都市を本拠とする都市銀行の仙台支店が国分町近辺に集積していた。宮城県が地盤の徳陽、振興の両相互銀行(当時)が国分町で設立、本店を構えた。日本興業銀行は昭和33年(1958)に国分町に移転してきた。同行の仙台進出は昭和19年(1944)で東一番丁にあった。東一番丁の南町通角には協和銀行があった。富士銀行と同じく戦前から仙台に支店を出していた。戦後、都銀が仙台に初出店するときも国分町周辺が選ばれた。昭和20~22年まで三菱銀行が国分町、三和および第一両行が東一番丁、住友銀行は新伝馬町に支店を構えた。戦後復興と青葉通りの新・金融街最高路線価地点の青葉通りは戦災復興の区画整理でつくられた道路で完成は昭和29年(1954)。完成とほぼ同時に最高路線価地点となったことになる。最も広いところで幅50mあり、同じく戦災復興の一環で50mに拡幅された東二番丁と並び戦後仙台のメインストリートに目された。当初は閑散としてた様をもって「仙台砂漠」「滑走路」などと言われたそうだ。その後、青葉通りは段階的に業務中心地の地位を獲得してゆく。国分町周辺に集積していた地銀本店、都銀等の支店が昭和30年代後半から20年弱かけて青葉通りに移転。新たに進出した銀行も青葉通りを選んだ。平成元年(1989)の地銀本店、都銀等の支店の分布を見るとその大部分が青葉通りにある。その中心、東二番丁・青葉通りの交差点に着眼すると昭和36年(1961)に富士銀行が北西角に移転。昭和44年(1969)には日本長期信用銀行が南西角に越してきた。南東角には昭和52年(1977)に七十七銀行が本店ビルを新築し広瀬通から移ってきた。4つ角のうち3つを銀行が占める「新・芭蕉の辻」と言ったところか。平成の度重なる再編統合を経て都市銀行はメガバンクと呼ばれるようになった。令和の現在、メガバンクはじめ大手銀行の支店と地元地銀の本店はすべて青葉通りに面している。仙台の場合、駅の引力もさることながら、経済の拡大に伴って城下町の町割りが手狭になり、広い区画を求めてビジネス拠点が移転した文脈がある。東京なら日本橋と丸の内のような関係が国分町と青葉通りにうかがえる。現在、国分町は広瀬通から北が東北最大の歓楽街、住居表示が「一番町」となった東一番丁はブランド店が並ぶファッション街だ。業務中心地の面影を残しつつ、城下町時代の町割りの上に歓楽街と商店中心街が隣り合う。こうした新旧の混然一体ぶりが独特の魅力を醸している。プロフィール大和エナジー・インフラ 投資事業第三部副部長 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。2018年から現所属に出向中図 昭和30年頃の仙台中心部定禅寺通り広瀬通り国分町芭蕉の辻青葉通り藤崎三越地元地銀の本店、都銀等の支店昭和年()頃の金融機関の立地その後別の場所に移転したもの昭和年頃と平成元年()の両方の時期に金融機関が存在する場所平成元年()の金融機関の立地移転または新規出店によるもの同・現存するもの東一番丁南町日銀大町新伝馬町名掛丁丸光丹六21出所)筆者作成。定禅寺通りと交差する地点の東二番丁のクランクは昭和61年(1986)に直線化 ファイナンス 2020 Jul.63路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

元のページ  ../index.html#67

このブックを見る