ファイナンス 2020年7月号 No.656
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独眼竜で知られる藩祖伊達政宗公の時代、仙台城下町は慶長6年(1601)の屋敷割をもって始まりとされる。明治に入り師団司令部、旧制二高や東北帝大が置かれ、今なお東北の政治経済の中心だ。大企業の支店、筆者が在籍した東北財務局をはじめ国の出先機関が集まる。人口109万。東側を除く三方を山に囲まれた地勢のコンパクトな街は「杜の都」と呼ばれ、とりわけ青葉通りや定禅寺通りのケヤキ並木が有名だ。碁盤の目状の町割りの原点・芭蕉の辻自然発生した街と異なり、仙台城下町は元々計画的につくられた。起伏による不整形はあるが、基本は碁盤の目状の町割りだ。仙台城に通じる東西の大手筋がx軸で、手前から道に沿って大町、新しんてんまち伝馬町、名なかけちょう掛丁の順で町名が付される。これに直交するy軸が奥州街道で、街なかの直線区間は南から南町、国分町、二日町、北鍛冶町という町名になる。南北の通りは奥州街道から東に一筋ずれるごとに東一番丁、東二番丁と数字が増え東十番丁まで。東西の通りは県庁北面を北一番丁とし北八番丁まである。グリッドの原点つまりx軸とy軸の交差点は「芭蕉の辻」と呼ばれた。仙台城下の旧町名は末尾が「丁」(ちょう)は武家地、「町」(まち)は商業地と使い分けられている。つまり芭蕉の辻は開府以来の商業地である大町、国分町、南町が交差する城下町一番の商業拠点だった。明治以降も引き続き中心街だったが、国分町に銀行、保険会社など金融機関や事業会社が集積し、押しのけられるように元々武家地だった一筋隣りの東一番丁に商店街が広がっていった。老舗呉服店の藤崎が仙台初の百貨店を開店し、昭和初期に三越が支店を出したのも東一番丁だった。国分町の金融街路線価図が登場した昭和32年(1957)。東一番丁の藤崎百貨店前(図中1)は仙台で2番目に高かった。最高路線価は「丹六菓子店前青葉通り」(図中2)である。丹六菓子店は菓子の量り売りで知られた人気店で仙台駅の正面にあった。以来60年以上にわたって仙台の最高路線価地点は変わらない。他都市に比べ駅前の発展が早いのには事情がある。煙を吐く機関車が主力だったころの鉄道は、市街地を迂回するルートを辿るのが通常だ。仙台においても現在地の約2kmほど東、今の貨物支線の仙台貨物ターミナル駅の場所に駅を設置する計画だった。これに待ったをかけたのが中心地の衰退を案じた地元の商業者たち。粘り強い請願の末、現在地に落ち着いた。仙台駅は明治20年(1887)に開業。市街地の外縁ではなく中にできた。地図を見ると路線が街の中心に引っ張られたかのように 駅の近くで“く”の字になっている。令和2年(2020)、青葉通りのm2当たり318万円に対し東一番丁は172万円と倍ほどの差がある。他方、昭和32年(1957)の時点では青葉通りの坪当たり14.5万円に対し東一番丁は13.3万円と1割以内の差にとどまる。昭和30年頃の仙台は駅前と芭蕉の辻界隈の2極体制と言えよう。芭蕉の辻界隈は街の中心たる地位を保っていた。国分町は戦前に引き続き業務中心地で、芭蕉の辻の4つ角のうち3つを銀行が占めた。まずは北東角に日本銀行があった。昭和16年(1941)の開設で今も同じ場所にある。南西角には明治11年(1878)創業の地元地銀、七十七銀行が本店を構えていた。日銀がある北東角から昭和4年(1929)に移ってきた。北西角には富士銀行の支店があった。戦前の安田銀行で仙台には明治21年(1888)に進出。東京に本店がある銀行では最も早い。62 ファイナンス 2020 Jul.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第5回 「宮城県仙台市」杜の都の金融街は国分町から青葉通りへ連載路線価でひもとく街の歴史

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