ファイナンス 2020年6月号 No.655
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石巻、山形、盛岡と3つの街を紹介したところで、本連載流の街の見方を解説する。要は路線価を手がかりに街の中心を見つけることだ。ただし中心はその時代に支配的な交通手段とともに移動する。正確に言えば舟運、鉄道そして自動車と、そのときどきの交通手段に適応した新しい街が旧来の街の外側にできるのだ。このことを踏まえ、交通手段による時代区分を念頭に街を見るポイントを3つ上げる。元来の中心地を探すこと、旧市街の輪郭をたどること、そして歴史の重層性を掴むことである。舟運と街道の時代~元来の中心地を探すまず、街の成り立ちには河川が関わっている。背景は3つあり、ひとつは城下町特有の事情だが外堀いわば防衛線としての河川である。次は水源としての河川だ。街の規模や形は給水能力に制約される。山形の回で紹介した御殿堰、江戸なら神田上水が知られているが、計画的に開発された街には川から導水し市街地に水路を張り巡らせた水道がある。最後に、街の構造を把握するのに重要なのが交通路としての河川である。元々物流拠点だった石巻は言うに及ばず、大量輸送機関と言えばもっぱら舟運だった時代、河川は都市間交通の最たるものだった。ならば河岸は今でいう駅のようなもの。街の玄関口つまり人々が行き交う拠点となった。さて、街を見る第1のポイントは、元来の中心地を見つけることだ。だいたいは舟運の拠点たる河岸に通じる街道にある。次ページ図、舟運と街道の時代の1にあたる場所だ。後に鉄道が開通しても昭和半ばまでは街の中心を保っていた。路線価図が登場した1957年(昭和32年)から1960年代にかけて、舟運に由来する元来の中心地がそのまま最高路線価地点となる例が多い。なお城下町によっては、藩政期の中心地と昭和の最高路線価地点がピッタリ重ならないことがある。その場合、「本町」という地名がカギだ。5月号の盛岡の回で元々の中心地を呉服町と説明したが、藩政期に遡ると街道のさらに北側の「本町」が栄えていた。今はマンションが建ち並ぶ住宅街だが、みずほ銀行の源流のひとつ、日本勧業銀行の前身が1898年(明治31年)に出店していた事実に名残がうかがえる。鉄道の時代~旧市街の輪郭をたどる明治期に開通した鉄道が市街地を変えたことには論を俟たない。もっとも当時の鉄道は煙を吐く蒸気機関車だった。動く迷惑施設だったに違いない。用地買収の都合もあったろう。時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ」(※)で昔の地形図を見ると一目瞭然だが、鉄路は当時の市街地を迂回するように敷設された。ひるがえって街を見る第2のポイントは、鉄道路線から旧市街の輪郭をたどることだ。6月号の盛岡なら東北本線、宮古方面に向かう山田線が当時の市街地の輪郭を示している。ちなみに迂回路の両端が繋がると東京の山手線、大阪環状線のような環状線になる。駅舎は街のはずれに建てられた。今でこそバイパス道路沿いの賑わいに比べて駅前が寂しくなったと言われるが、かつては駅前こそ郊外だったのだ。「駅裏」という言葉があるのも駅が街の輪郭線上にあったからだ。その内側と外側で出口から見える風景はまったく違った。駅はたまに遠くに行くためのもの、現代人の空港のような感覚だったのではないか。開通後数十年にわたって駅前は街の中心ではなかった戦後、蒸気機関車から電車になり、都市が拡大するにしたがって街の中心は次第に駅に向かって動いて56 ファイナンス 2020 Jun.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第4回街の構造を把握する3つのポイント連載路線価でひもとく街の歴史

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