ファイナンス 2020年6月号 No.655
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様々な形であったが、有権者による選挙が行われたことは一度もなかった。98年の、参議院議員選挙敗北の責任をとって橋本首相が退陣した後も、小渕、梶山、小泉の3氏が、連日マスコミに登場して政策についての公開討論を行ったが、国民による選挙が行なわれたわけではなく、首相を選出したのは自民党の両院議員総会だった。そのように選出される首相に、諸外国の首相や大統領のようなカリスマはなかった。政策形成面でのリーダーシップも、与党(連立与党)議員によって担がれることから制約されていた。与党の政審・総務会といった機関が政策形成面で強い力を持っていることも、首相の政策形成面のリーダーシップの制約になっていた。そのプロセスを尊重しないと、党内民主主義に反するという批判を受けることになったのである。人事面のリーダーシップも、与党議員によって担がれていることから制約されていた。中選挙区制の下、一つの派閥の議員だけでは与党内での過半数を得られないことから、首相は他の派閥(連立内閣の場合は他の党派)にも配慮した人事を行っていた。田中(竹下)派が総理を担いでいた時代には、田中(竹下)派の幹事長が閣僚候補者のリストを取りまとめて首相に届け、それに基づいて組閣が行われるパターンが一般化していた。マスコミの批判も、間接的に首相の人事権を制約していた。新たな内閣成立後しばらくするとマスコミからの政権批判が始まることが多く、それが、首相の政策の成果を見届けた上で、その可否を問う形で国民に信を問うことを難しくしていた。野党の国会質問も、そのような状況下、政策論争よりもスキャンダルたたき的なものが多かった。そして、マスコミや野党の批判で内閣の支持率が低下すると、「人心一新」のために内閣改造が行われ、それが各派閥の「人事異動」を促進する機能を果たしていた。内閣改造を行っても支持率が回復しない場合には、与党内での他派閥の領袖への「政権交代」が促されることにもなっていた。ちなみに、かつては毎年のように内閣改造が行われていたが、それは岸内閣での安保騒動の後を受けて成立した昭和35年の池田内閣以来だとされている。池田内閣においては、毎年7月に改造が行われ、中堅議員を中心とする内閣と、派閥領袖を取り込んだ「実力者内閣」とが交互に組織された。また、閣僚の交代と同時に党三役等の人事も行われていた(「歴代首相物語」牧原出、新書館、2003)。そのような仕組みを変えていこうとしたのが、2001年、自民党予備選挙の地方での圧勝という異例の状況で登場した小泉内閣であった。小泉首相は、人事面でも政策形成面でも従来の慣行にとらわれない手法によって、それまでの我が国の首相のリーダーシップに大きな変化をもたらした。閣僚人事では、(1)派閥推薦(2)党三役と相談(3)年功序列という従来の慣行を無視して5人の女性、3人の民間人を登用した(「日本型ポピュリズム」大嶽秀夫、中公新書、2003)。また、一内閣一閣僚を宣言して年中行事としての内閣改造を行わないこととした。2003年の内閣改造では、自分の派閥から幹事長を出さないとのそれまでの慣行を破って自派から安倍幹事長を指名し、また大幅に若手の登用を行った。政策形成面では、閣僚会議や民間人閣僚の活用、更には小選挙区制の下での政党交付金の配分という力を持つようになった幹事長との連携で、党の政審や総務会の議論をリードし、自らの政策の実現を図った。今日の首相のリーダーシップは、そのような小泉首相の改革の延長線上にあるが、諸外国の首相や大統領のリーダーシップとは多くの点で違いが見受けられる。民主主義の基本である選挙に関していうならば、その後、民主党が行ったマニフェスト選挙の結果が必ずしも評価されなかったことから、個々の候補者が後援会を中心に自らの公約への支持を訴える従来のスタイルに戻っているといえよう。次回以降、まずは、諸外国の首相や大統領のリーダーシップを支える選挙制度、そして、官僚機構、政策議論の状況などについて順次見ていくこととしたい。 ファイナンス 2020 Jun.19危機対応と財政(1)SPOT

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