ファイナンス 2020年5月号 No.654
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私の週末料理日記その364月△日日曜日新々季節は春である。徒然草に「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあめれ」(第十九段)とある。周囲からは「花より団子」党と思われている私ではあるが、ここ何年かは、桜が咲き始めると、日々花の開き具合を気にし、花に嵐の心配をしながら、葉桜になるまで桜のことばかり気になってしまう。徒然草に書いてあるとおりである。兼好法師が徒然草を執筆したのは40代といわれているから、15年か20年遅れでようやく彼の心境に、形だけは追いついてきたということか。それはともかくとして、今年はコロナウィルスのせいで、春だというのに楽しめない。家に籠ってばかりだと逼ひっ塞そく感で鬱々としてしまう。江戸時代に「逼塞」という刑罰があったそうだが、今はまさしく「逼塞」である。いや、「逼塞」は門を閉ざして日中の出入りを許さずということだったようだから、夜間の外出自粛の今は差し詰め「閉門」というところか。兼好法師は花の話に続けて、「灌仏のころ、祭のころ、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと人の仰せられしこそ、げにさるものなれ」と、若葉が涼しげに茂る様子は、世の物悲しさや人の恋しさにもまさると説く。同感。灌仏会は4月8日だが、旧暦だから今の4月末頃。葵祭は5月15日。5月半ばだと、若葉というより青葉かな。いずれにせよ、涼しげに茂っている樹木の脇を歩いても、キープディスタンスというのだろうか、人と距離を確保するのに気を取られているのでは、風情は楽しめないだろうな。若葉の次は青葉。目には青葉山ほととぎす初鰹。初鰹といえば5月か6月だろう。初夏の季語を三つ並べたこの有名な句は、江戸時代享保期の俳人山口素堂の作である。因みに、この句には「鎌倉にて」と前書きがあり、物の本によれば、素堂は徒然草第119段「鎌倉の海に鰹といふ魚は」という一節を踏まえて詠んだという。徒然草の同段は、最近鎌倉では鰹という魚が珍重されているが、昔は身分の高い人の前には出さなかったものであり、末法の世になったので鰹のような下魚が上流階級でも喜ばれるようになってしまったという話である。兼好法師が末法と嘆いた鰹は、江戸時代になると「まな板に小判一枚初鰹」とか「女房を質に入れても初鰹」というぐらいに成り上がった。まあ鮪のトロなども、江戸時代はもちろん昭和初期までは、猫も食べないという意味で「猫またぎ」と呼ばれて捨てられていたのであるから、世の中の価値観というものはわからないものである。桜と新緑の話がいつの間にやら鰹と鮪の話になってしまった。閑話休題。さしあたっては今日をどう過ごすかだ。緊急事態宣言やら自粛要請やらで、せっかくの週末ながら、近所のなるべく人通りの少ないところを散歩するほかはやることがない。あらかじめ図書館でどっさり本を借りておけばよかったのだが、借りていた本を読み終えて、次の本を借りに行こうと思った矢先に臨時休館になってしまった。無聊をかこつとはこのことか。結局日々テレビの前で過ごす時間が長い。人生の後半、麻雀で言えば南2局も終盤戦という年齢になって無為徒食に日がなテレビの前にいるのは情けないが、仕方がない。因みに中国語では、「仕方がない」は「没法子(メイファーズ)」というらしい。ただ、日本語の「仕方がない」とは少しニュアンスが違うと聞いたことがある。はるか昔に読んだ和辻哲郎の文章の中で、政府の保護を期待しえない戦前の中国の民衆について論じた文脈があった。その中で、中国語の「没法 ファイナンス 2020 May.65連載私の週末 料理日記

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