ファイナンス 2020年5月号 No.654
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盛岡城下町は1597年(慶長2年)、南部信直の築城に始まる。場所は中津川と雫石川が北上川に合流するところが選ばれた。河川が外堀の役目を果たすこと、舟運による物流を見据えてのことだが、それが現代に至って岩手山を背に城と川が織りなす街の風景を形成している。盛岡の城下町は丁字路を多用した「五の字」の町割が特徴だ。商業地は奥州街道に沿って配置され、とくに中津川を挟んだ盛岡城の対岸が賑わった。街道を南下すると新山河岸がある。多くの川舟が発着した川湊が盛岡城下の玄関口だった。呉服町金融街明治以降も街は中津川沿いに発展。中心地となる呉服町には近代の地域経済を支えた銀行が集積した。いくつかは往時をしのぶ歴史的建造物として盛岡の見どころになっている。図1は1957年(昭和32年)の路線価図である。A地点、盛岡城から中ノ橋を渡った交差点に岩手殖産銀行(後の岩手銀行)の本店があった。東京駅赤レンガ駅舎の設計で知られる辰野金吾、葛西萬司の設計で1911年(明治44年)竣工。1896年(明治29年)に創業した盛岡銀行の新たな本店として作られた。その後盛岡銀行は破たんしたが、1936(昭和11年)に岩手殖産銀行が建物を譲り受け本店とした。岩手銀行の本店が現在地に移転した後も、2012年(平成24年)まで中ノ橋支店として使われていた。現在は岩手銀行赤レンガ館として一般公開されている。国の重要文化財である。図1の時点ではB、C地点も岩手殖産銀行の施設だった。B地点にはロマネスク・リヴァイヴァル様式の重厚な洋館がある。国の重要文化財で2002年(平成14年)に市の文学館「もりおか啄木・賢治青春館」となった。地元出身の建築家、横濱勉の設計で竣工は1910年(明治43年)。盛岡銀行の新築移転の前年に第九十銀行の新たな本店として作られた。第九十銀行の由来は1878年(明治11年)に南部藩士の出資で創設された第九十国立銀行である。第九十銀行は途中その他2行との3行合併の時代を経て1941年(昭和16年)、岩手殖産銀行に合流した。図中Cは現在の盛岡信用金庫本店である。石造の重厚な建造物で前面に立つ6本の列柱が印象的だ。三井本館や国会議事堂を彷彿させる新古典主義の流れを汲む。赤レンガ館を手掛けた地元出身の建築家、葛西萬司の設計で1927年(昭和2年)に竣工。1921年(大正10年)に設立された盛岡貯蓄銀行の本館だった。同行は1943年(昭和18年)に岩手殖産銀行に合流。路線価図の翌年、1958年(昭和33年)に盛岡信用金庫が建物を買い取って本店にした。図中Dには富士銀行盛岡支店があった。今のみずほ銀行である。前身の図1 盛岡の1957年(昭和32年)の路線価図注)補記は筆者による50 ファイナンス 2020 May.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第3回 「岩手県盛岡市」かわまち盛岡と金融街の栄華連載路線価でひもとく街の歴史

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