ファイナンス 2020年5月号 No.654
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のタイルが、その頃の最善の工法により張られている。昭和39年(1964)5月には、庁舎の前庭に手が加えられ、都立園芸高校の早川忠治氏の設計により植込みの手直しと石、砂を適度にあしらって、花なども供え、当時としては近隣にちょっと比類のない垢抜けした枯山水風の庭園が造られた。この年は、わが国がIMF八条国に移行し、9月にはIMF東京総会が開かれ、10月には東京オリンピックが開催された年であり、戦後の日本が、国際社会に名実共に復帰した記念すべき年でもあった。昭和53年(1978)には事務室の狭隘を解消するため、庁舎西側の4階及び5階部分に鉄骨造の事務室が増築され、現在の財務省本庁舎の形となった。外壁タイル及び造園整備後の庁舎(昭和44年頃)さいごに財務省(大蔵省)は、明治、大正時代は庁舎を転々としながら過ごし、未曾有の震災を大手町で経験した後、霞が関に腰を落ち着けてからは戦火を乗り越え、GHQ接収中の四谷時代という苦難の時も経て、昭和、平成、そして令和といくつもの時代を駆け抜け、現在に至っている。現庁舎は、昭和9年(1934)着工、昭和18年(1943)竣工であり、令和2年(2020)1月には、耐震改修を終え、前庭も化粧直しして、本号発刊後の同年7月には、心新たに喜寿(77歳)を迎えることとなる。現役職員の誰よりも先輩であるこの建物の長寿を願い、見守り見守られながら、共に令和の時代を元気に歩んで行きたい。引用文献・「霞ヶ関100年」平成7年 建設省監修・「大蔵省庁舎ものがたり」篠原忠良著・「大蔵省本庁舎50年の歩み」大蔵省大臣官房会計課編財務省庁舎の変遷時期出来事慶応3年(1867)京都に金穀出納所の設置慶応4年(1868)明治元年会計事務課の設置京都二条城内に会計事務局の設置会計官の設置明治2年(1869)会計官の本衙が京都から東京出張所(竜ノ口旧幕府評定所)に移転会計官本衙が旧忍藩松平忠敬邸跡に移転二官六省制により大蔵省設立明治3年(1870)大蔵省が皇居内に移転明治4年(1871)大蔵省が旧姫路藩酒井雅楽守忠邦邸跡(大手町)に移転明治10年(1877)大蔵省敷地(大手町)に西洋館建造大正12年(1923)関東大震災により大手町庁舎焼失大正13年(1924)大手町にバラック庁舎を建設し、移転昭和9年(1934)霞が関に庁舎建設を決定設計者:大熊喜邦(博士・大蔵省営繕管財局工務部長)昭和10年(1935)霞が関庁舎の杭打ち工事開始昭和11年(1936)霞が関庁舎新営工事着工:大倉土木(株)昭和13年(1938)日中戦争の勃発による資材難のため工事打ち切りが決定昭和14年(1939)工事再開:井上工業(株)昭和15年(1940)霞が関庁舎仮竣工(外装の大部分と内装の一部は未完の状態)大手町庁舎が火事に遭い、霞が関庁舎へ急遽移転(内装工事、暖房設備工事は引き続き施工)昭和17年(1942)霞が関庁舎屋根増強工事完了戦争に備え、屋上にコンクリート耐弾層(厚さ45cm程度)を設置昭和18年(1943)霞が関庁舎竣工(外装タイル張りは未完の状態)昭和20年(1945)終戦を迎え、霞が関庁舎がGHQに接収接収時代は米軍の事務所や兵舎に改装昭和21年(1946)霞が関庁舎接収後、分散して執務していたが、四谷仮庁舎に移転昭和30年(1955)GHQによる接収解除、霞が関庁舎返還昭和31年(1956)霞が関庁舎の事務庁舎仕様への内装改修工事四谷仮庁舎から復帰(以降、霞が関庁舎を使用)国税庁入居外務省入居昭和35年(1960)外務省転出経済企画庁入居内閣法制局入居憲法調査会入居昭和36年(1961)屋上コンクリート耐弾層撤去工事完了昭和37年(1962)内閣法制局転出昭和38年(1963)外装タイル張り工事完了昭和39年(1964)前庭造園工事完了憲法調査会転出昭和42年(1967)設備棟新築暖房設備設置工事完了昭和43年(1968)冷房設備設置工事完了昭和44年(1969)大蔵省開庁100周年講堂、中庭等で記念式典挙行昭和46年(1971)中央合同庁舎第4号館新築経済企画庁転出昭和53年(1978)霞が関庁舎の増築工事完了(西側4階及び5階)平成4年(1992)証券取引等監視委員会発足、転出平成10年(1998)金融監督庁、金融企画局発足、転出平成13年(2001)中央省庁再編により財務省に改称令和元年(2019)大蔵省・財務省開庁150周年霞が関庁舎の免震化の工事が完了 ファイナンス 2020 May.21大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ SPOT

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