ファイナンス 2020年5月号 No.654
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被って出てきた人も随分いた。書類は男性職員が持ち出し、女性職員は電話の線を切って電話機だけを抱えて逃げたり、2人がかりで和文タイプや輪転謄写機など、得難い機械を持ち出したという話がある。昭和中期の庁舎の変遷(四谷~霞が関へ)GHQの接収解除、返還昭和30年(1955)12月、GHQによる接収が解除され、霞が関庁舎が大蔵省の手に戻ってきた。返還式が挙行され、在日米軍のカバーデル准将から大蔵省の平田事務次官に鍵をかたどった木製の標識が受け渡された。返還式(平田事務次官とカバーデル准将)昭和31年(1956)1月から3月末にかけて、GHQが使用していた兵舎、売店、大浴場等を事務室等に復元する突貫工事が行われ、工事が完了した同年3月31日に四谷庁舎から霞が関庁舎への引越しが行われた。大蔵省の引越しと合わせて、同年3月23日に内幸町の東拓ビルから庁舎の5階に国税庁の引越しが行われている。大蔵省が霞が関庁舎に復帰した際には、外務省庁舎の建て替えに伴い、北側の1階から4階には外務省が入り、昭和35年(1960)まで同居することとなった。昭和35年6月、外務省が新庁舎に移転した後に、今度は経済企画庁、内閣法制局、憲法調査会が入り、内閣法制局は昭和37年(1962)11月まで、憲法調査会は昭和39年(1964)9月まで同居していた。その後、経済企画庁が新築された中央合同庁舎第4号館に移転した昭和46年(1971)10月以降、本庁舎は専ら大蔵省(現・財務省)と国税庁の庁舎として使用されている。GHQの接収解除後も工事は継続して行われており、昭和36年(1961)には、戦後は無用の長物となった耐弾層を撤去し、屋上の整備を行った。外壁が現在のタイル張りの装いをしたのは、昭和37年(1962)から38年(1963)であり、竣工後20年余りの歳月をコンクリートの素肌のままで通したことになる。それまでは、本庁舎の外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、ところどころ鉄筋が露出し、城郭を思わせる地階の石張りや石造りのアーチの門との対照が印象的だったという。太平洋戦争の戦時体制から終戦を迎え、その後、昭和30年(1955)までのGHQによる接収期間を経た後、当時の大蔵省と建設省との度重なる打ち合わせ・検討の結果、約250万枚(レンガ小口のタイル換算)コンクリートの素肌のままの本庁舎(昭和34年頃)20 ファイナンス 2020 May.SPOT

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