ファイナンス 2020年5月号 No.654
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弾層などを付置することとされ、大蔵省においても爆弾の直撃に備え、屋根増強工事を行い、昭和17年(1942)に屋上全面に厚さ45cm程度の耐弾層を設置した。昭和20年(1945)に敗戦を迎え、戦火をまぬがれた建物は、駐留軍の事務所、宿舎、兵舎などのために接収されたが、大蔵省本庁舎も例外ではなく、約10年余の間、GHQに接収されることとなった。ミズーリ号艦上での調印から旬日を経ない9月11日「72時間以内に現状を少しも変更せず明け渡せ」との命令があったという。戦地から復員してきたある先輩が登庁したその日、5階の窓からも書類などを投下し、引越しの真最中でテンヤワンヤの末、この時もまた、「代替庁舎」の勧銀、東京証券取引所など都内数か所に分散避難したという。当時、GHQが作成した大蔵省本庁舎の平面図によると、1階と2階には主として事務室や諸設備があり、3階以上は兵舎になっている。4階講堂は教会として使われ、地階受付の辺りにはボーリング場が設けられ、その南隣にはビヤホールがあった。1階会計課経理契約の辺りにはスナックバーがあり、3階の食堂はやはり食堂として使っていたが、講堂の下あたりはクラブで、ステージもあり、ダンス遊技場として使われていた。庁舎内にあったボーリング場(資料提供:米国立公文書館所蔵 佐藤洋一提供)大蔵省中庭(衛兵のブラスバンド)(資料提供:米国立公文書館所蔵 佐藤洋一提供)かくして分散して執務していたが、極めて不便であり、一日も早く一堂に会して執務できる建物を散々苦労して探した結果、米軍が野戦病院に使用していたが急に他に転ずることとなり使わなくなっていた四谷第三小学校を、都の教育局と交渉し、昭和20年(1945)の年も暮れる頃、ようやく仮住まいとして借り受ける目途がついた。それから急いで小学校の中を大世帯の大蔵省の庁舎向きに手を入れる改修がなされた。屋上に1階分のバラックの庁舎と、小学校の北東側の道路を隔てた民有地を買収して、木造2階建て4棟、さらに小学校の北西側に2棟が建て増しされて、ようやく、昭和21年(1946)4月20日に引っ越すことになった。昭和31年(1956)3月に霞が関庁舎へ戻るまでの約10年間の四谷時代は、戦後日本の最も苦難な時代でもあった。四谷時代の大蔵省庁舎その間、昭和22年(1947)9月12日夜、急造の木造2階建ての庁舎から火が出て三度目の火災を起こしたことがある。大火には至らなかったが、本館屋上のバラック庁舎などが燃え、未復員の職員の給与台帳などの書類を焼失してしまったとのことである。当時は女性職員が防空服をまだ持っていて、それを ファイナンス 2020 May.19大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ SPOT

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