ファイナンス 2020年5月号 No.654
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大手町 諸官衙仮庁舎配置図(大正14年)昭和初期の庁舎の変遷(大手町~霞が関へ)霞が関庁舎はロシア大使館等の跡地に霞が関中央官衙のうち、大蔵省庁舎の建設は遅れたため、戦時体制下の影響を大きく受けることになる。昭和9年(1934)、霞が関の現在地(当時、麹町区裏霞が関)に大蔵省本庁舎の建設が決定された。建設決定当時の敷地は、ロシア大使館並びにイタリア公使館の移転跡地に岩倉邸敷地の一部を合せた土地であった。ロシア大使館の土地は、維新の際は宮津藩本荘邸の敷地であったが、国に接収されたのち大使館に貸し付けられていたものである。このように歴史のある土地であったことから、ロシア大使館を取り壊した時に、その床下から「清瀧水」と刻まれた風雅な石の井戸枠が出てきた。これは本荘邸の井戸に用いたものではないかと言われており、今でも中庭の北寄りに補修されて残されている。「清瀧水」の井戸昭和10年(1935)から11年(1936)にかけて、庁舎の土台となる杭打ち工事を行った。昭和11年には本体工事を発注し、13年度には完成予定であったが、工事の途中で日中戦争が起こり、臨時資金調整法と鉄鋼工作物築造許可規則の趣旨から工事が一時中止されることになった。まだ鉄骨組立て中であり、雨ざらしで鉄材が腐食することを懸念し工事を進め、コンクリートが打ち上がった段階の昭和14年(1939)1月に工事打ち切りの措置が取られた。しかしながら、当時大蔵省が大手町のバラックで長年に渡り不自由を忍んでいたことや、軍部から未完の庁舎を倉庫に使用したい旨の申し出があり、貸し付けた場合はそのままになるおそれもあったことから、昭和14年(1939)9月には工事が再開された。新庁舎は、昭和15年(1940)6月8日に仮竣工したが、天井、壁、廊下はコンクリートの素地のままで埃がひどく、電気工事も不完全でエレベーターもなく会議室も整わない有様であった。新庁舎が仮竣工して間もない同年6月20日の夜、大手町の逓信省航空局新館の煙突に雷が落ち火災を生じ、火災は大蔵省のバラック庁舎にも及び、すべて灰儘に帰してしまった。この時は「代替庁舎」として、蔵相官邸(大臣官房)、議事堂(主計局)、糖業会館(主税局)、東京銀行クラブ(銀行局)、勧銀本店(預金部資金局、国民貯蓄奨励局)、正金銀行(為替局)等が使用された。しかし、2日後の同年6月22日には営繕管財局が新庁舎に乗込み、内装工事を突貫で行っている最中の7月6日に、分散執務を行っていた職員も全て新庁舎に集結し、引越しを完了させた。その後も内装工事は続けられ、資材難、物価騰貴により、外壁タイル貼りが中止されたほか、建物の修飾部分が省かれるなど設計変更を余儀なくされた結果、完成したのは昭和18年(1943)7月であった。戦中から戦後の庁舎の変遷(霞が関~四谷へ)屋上耐弾層の設置とGHQの接収太平洋戦争に突入以後は、政府は空襲時における中央官衙の機能を維持する方針のもとに防空対策をたて、既存の鉄骨鉄筋コンクリート造の庁舎に対しては、耐18 ファイナンス 2020 May.SPOT

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