ファイナンス 2020年5月号 No.654
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大手町時代の大蔵省配置図大正~昭和初期の庁舎の変遷 (大手町仮設庁舎) 関東大震災での庁舎の被害と応急復旧大正12年(1923)9月1日土曜日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。地震後開かれた政府の緊急会議では、地震後30時間経った2日午後6時、東京市と府下5郡に戒厳令が出された。地震後まもなく発生した火災によって都心は三日三晩燃え続け、多くの官庁建物も甚大な被害を被った。地震直後、被災した省庁はそれぞれ仮事務所を設置したが、大蔵省は永田町の大蔵大臣官舎で事務を開始したとされている。大蔵省の焼け跡(大手町)地震が発生してから1ヵ月後の10月1日、大蔵省に臨時営繕局が設置され、約1700万円の予算で被災庁舎の応急復旧に当たることとなった。執務場所は、当時建設中の議院敷地内にあった元枢密院の建物だけでは狭かったので、その傍らに天幕を張ったが、「雨が降ると製図版に、天竜下りの舟のようにしぶきがかかった」という。まずは、焼け跡に残されたおびただしい瓦礫の撤去工事に取り組み、4カ月の日数を要し、大手町一帯の官庁建物だけでも約4万m3の瓦礫が越中島の大蔵用地に盛土として運び込まれた。応急施設の整備に当たり、事務能率の増進を図るため、大手町地区に集中させる等の方針のもと、設計は昼夜兼行で行われ、設計図と仕様書の準備が整ったところで、施工業者を総動員して順次工事にとりかかった。震災から半年後の大正13年(1924)2月までに、内務省、大蔵省、外務省、文部省、農商務省、逓信省、会計検査院、警視庁等のバラック(仮設)庁舎建築工事が終了した。大蔵省の職員はバラック完成までの間、現代のBCPによるところの「代替庁舎」へ一時的な移転が行われることとなった。その移転先は丸の内の三菱本社ビル新館である。関東大震災復興後の大手町のバラック庁舎三菱本社ビル新館は、地上6階建てで大正10年(1921)に竣工したばかりであった。その6階に大臣と次官、5階に主計局と主税局、4階に理財局と銀行局が配置された。新館は丸の内で最初の汚水浄化装置を装備していた(それ以前の水洗トイレは単純なため込み方式)。大蔵省の職員はこうして新築まもない日本最高級オフィスでの暮らしをいっときだけ経験した後、バラック住まいに移行し、移行後は、不便な状況の下で仕事が続けられていた。各省庁の仮設バラック庁舎は、その後、大蔵省の手によって、順次鉄筋コンクリート造等に建て替えられていくが、本家本元の大蔵省は、昭和15年(1940)に再び火災に遭うまで16年間もバラック住まいを続けることになる。 ファイナンス 2020 May.17大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ SPOT

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