ファイナンス 2020年5月号 No.654
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明治初期の大蔵省の成り立ち大蔵省の前身は、大政奉還直後の慶応3年(1867)12月、京都で朝廷内に設けられた金穀出納所である。慶応4年(明治元年、1868)1月、三職分課の官制が定められ、会計事務課が置かれた。同年2月には三職八局制が施行され、会計事務局が二条城内に設けられた。また、同年4月には「政体書」により、会計官となり内政関係の事務は、ほとんど会計官に集まった。明治2年(1869)7月、「職員令」により、会計官を引継いだ形で大蔵省が設置された。一方、同年4月に民部官(府県事務の所管庁)が設置され、会計官との管掌権限の調整が行われ、7月には大蔵省と併立する形で民部省が設置された。同年8月には大蔵省、民部省が合併したが、大蔵省の権限増加に懸念する向きもあり、明治3年(1870)7月には両者が分離した。明治4年(1871)7月、廃藩置県に伴い、再び民部省を廃止し大蔵省と合併した。明治6年(1873)11月、内務省が設置され、大蔵省から地方行財政の組織などが内務省に移管した。明治13年(1880)3月には大蔵省から監査部門が独立し、会計検査院が設置された。明治初期の庁舎の変遷(京都~大手町へ)大手町の敷地内に平将門の首塚あり!明治元年(1868)に会計官となった当初は京都の左大臣関白近衛忠煕邸内に本衙が設けられたが、明治2年(1869)3月には東京出張所(竜ノ口旧幕府評定所)を本衙とし、その後、同年4月には旧忍藩松平忠敬邸跡に移された。同年7月に大蔵省が創設された当初の庁舎は、そのまま松平忠敬邸が使用された。上屋敷は江戸城の馬場先門にあり、現在の皇居前広場の一画(皇居前警備派出所付近)に当たる。その後、明治3年(1870)に馬場先門内の皇城(皇居)内に移されたが、明治4年(1871)8月には神田橋門内の旧姫路藩酒井雅楽守忠邦邸跡に移転した。創設当初から移転を繰り返していたが、ようやくこの地に定着した。当初は大名屋敷でそのまま執務していたが、明治10年(1877)に木造2階建の西洋館が建造された。当時、執務されていた方の記録によれば、「正門を入った左側に大きな瓢箪池があり、池の真ん中の丘の上に枝ぶりの良い立派な松、その松の下に平将門の首塚があった」とのこと。また、瓢箪池は神田明神(元和2年(1616)に現在地へ遷座)の御手洗池であったと伝えられ、神田明神の祭礼日には、神輿が、大蔵省の敷地の中まで担ぎこまれるのが年中行事になっていたといわれている。当該庁舎は、大正12年(1923)、関東大震災で焼失してしまったが、将門首塚は現存している。関東大震災前の大蔵省庁舎(大手町)大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話 あれこれ大臣官房参事官 兼大臣官房会計課長 木村 秀美16 ファイナンス 2020 May.SPOT

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