ファイナンス 2020年4月号 No.653
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2.高校からプロ野球へ私は22年間プレーしたのですが、最初の3年間ぐらいは成績も平凡で「王は王でも三振王」と言われ、随分と冷やかされました。私は高卒でプロの世界に入りました。今もそうなのですが、高校からプロ野球に入った人たちは、体力的に見て、まだ大人になる過程の肉体なのです。高校レベルの野球に対しては自分なりの活躍ができますが、プロに入ると、体力的には大人と子供ぐらいの体の違いがあります。また、先にボールを投げる投手であれば、先手となりますので、良いところに投げることができれば、18歳でもそれなりの仕事ができます。しかし、打者というのは経験を積むことが必要です。投手のものすごく速い球、重い球、変化球の曲がりの大きさや鋭さ、こういういったものには経験なしではなかなか対応できません。ですから、打者の場合、高校を出てすぐに活躍できる状況にはないのです。話は変わりますが、高卒でプロの世界に入った自分の中で不満があるとしたら、大学に行かなかったことです。もし大学に行っていたら、あのような成績もホームラン記録も出せなかったかもしれません。しかし、大学に行くことで、日本全国から集まってきた仲間と幅広い交友関係を築くことができたのではないかと思います。また、私は高校からいきなりプロ野球の世界に入ったので、何事も「仕事」ということでやることになりました。大学生活を通じて「いろいろな失敗をしてもいいんだ」などと、様々なことを学ぶ時間がなかったのは残念に思います。次に生まれ変わっても野球選手にはなりたい。しかし、大学だけは行きたいと思います。3. プロとしての考えを持った 長嶋茂雄さんただ、私にとって幸運だったのは、長嶋茂雄さんと一緒に野球ができたことです。長嶋さんは本当に図抜けた存在でした。野球の技術はもちろん、俊敏さでも大変素晴らしかった。それに加えて、プロとしての考えを持っていました。「自分がこういうふうにすると、お客さんが喜んでくれるだろう」というところまで考えてプレーしていました。私は相手が投げる球を一生懸命に打つだけで、そんなことを考える余裕もありません。長嶋さんはいわゆるプロとしての考えを持って野球に取り組み、お客さんの胸の中に飛び込むプレーをたくさんして、お客さんをどんどんグラウンドに呼び込みました。またメディアもそういう人物を求めていました。今では、長嶋さんや中畑清君のように、自分をどういう形でアピールするかというところまで考えてプレーする人たちがだんだん増えてきています。身近なところでは、福岡ソフトバンクホークスの松田宣浩選手です。彼らは自分の調子の良し悪しに関係なく、ファンにアピールすることをものすごく考えています。ですから、チームメイトをとても力付けます。自分の調子が悪い時に元気を出すのは勇気が要ることだと思います。私は苦手でしたが、こういうことをできる選手が各チームに一人ぐらいはいます。私は、野球界のために頑張っているこうした選手たちに感謝しています。4.荒川博さんとの出会い私が野球人生を振り返るときは、荒川博さんを忘れるわけにはいきません。私はそれなりにボールを遠くに飛ばすことはできましたし、春の甲子園大会で優勝するなど、野球の環境にも恵まれました。そうした中で読売巨人軍に入りましたので、野球人の中でも恵まれた歩み方をすることができたと思います。しかし、「三振王」と言われていたころの成績は平凡でした。その頃、高校の先輩でもある荒川博さんがコーチとして巨人に入団されたのです。広岡達朗さんが1年先輩の荒川さんを呼んだのだと思います。荒川さんとの出会いは私にとって素晴らしいことだったのですが、本当に地獄の時を過ごすことになりました。それまでも自分なりには練習をしていたつもりでした。しかし、荒川さんの指導の下、とにかく朝から晩まで練習することになりました。「ホームランを打ちたいんだろう!三冠王を取りたいんだろう!」と荒川さんは言います。私からしたら全然考えてもいないこ ファイナンス 2020 Apr.57職員トップセミナー 連載セミナー

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