ファイナンス 2020年4月号 No.653
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評者国際局長岡村 健司野島 透 著夢を駆けぬけた飛龍  山田方谷明徳出版社 2020年1月 定価 本体800円+税爽快な読後感である。澄み渡る紺碧の空に白く映える気高い富士山と、遥かその山頂を越えて昇っていく竜の姿が、自然と思い浮かぶ。著者は、我々昭和60年入省組が誇る山田方谷研究の第一人者であり、方谷直系六代の孫である。膨大な文献調査の裏付けのもとに、「山田方谷の生き様を通じて江戸後期・幕末から近代日本国家の誕生までを描く」という野心的挑戦は、見事な成功を収めている。方谷の幼少期・青年期の人間臭い逸話はとても興味深く、藩政改革の成功は政策担当者にとって学習材料の宝庫である。河井継之助や新選組の谷三兄弟と織りなす人間模様は、幕末の時代小説としても群を抜いて面白い。方谷の人生を、著者はこう評している。「夢(大志)を持ち追いかける重要性を説き、羅針盤として『至誠』を掲げた方谷は、激動期に改革者として、その人生を全うした。その姿は、一抹の憂いもなく、一片の悔いもない。自由でそして透明である。」子孫によってこのように評されること、これは方谷のような偉人ならずとも、人としての幸せの極致ではないかと思う。著者は、煌きを放つ名言を、方谷発として全編に散りばめている。そのいくつかを紹介しよう。(1)政治も経済も大局観こそ大事。総じてよく天下の事を制する者は、「事の外に立って事の内に屈しないもの。」(2)財政改革の極意は、「財の内に屈せず、財の外に立つ精神」。金銭の増減・収支のみに気を取られず、全般を見通す識見を持って大局的に物事を見る必要。(3)政の根本は、至し誠せい惻そく怛だつ=誠意を尽くし人を思いやる心。(4)方谷の「義(人として歩むべき正しい道)を明らかにして利(自分自身の利益)を計らず」の理念は、三島中洲の「義(=倫理)利(=利益)合一論」となり、渋沢栄一はこれをわかりやすく「論語とソロバン」と言い替えた。(5)方谷の最後の言葉は、「唯、必ず我が夢は叶うと信じるのみ。」である。圧巻は、時の老中首座である主君板倉勝静が、生麦事件(1862年)の事後対応のために京都に入り、「攘夷か開国か」を方谷に問うた際の答である。「開国は朝廷の御意志に沿わず、鎖国は時勢に反します。幕府がいずれかに方針を決定し、誠意をもって決定したことを貫けば、朝廷の御意志も時勢も幕府に従って変わっていくと確信します。」著者は、この方谷の言を一番弟子の三島中洲をして「方谷先生は条理一貫を貴び、君主の誠心を首尾一貫させるように尽力する主義であった。」と解説させている。方谷は「攻めの開国派」で、「開国し貿易を行うことは天下の公道。守りから攻めに転じ、我が国から積極的に外に出て行き伸びるべきで、列国を我が国に入れて内に屈するべきではない。」との考えであった。この生麦事件の賠償金を、幕府は支払い、薩摩藩は支払いを拒否して薩英戦争へと進む。この際に英公使の通訳だったアーネスト・サトウは、その著書「一外交官の見た明治維新」の中で、幕府が賠償金支払いを約しつつも英国からの物質的援助の申し出は拒否したことを称賛し、この愛国心こそが列強による内戦・分割植民地化を防ぎ、日本人自身による維新革命を可能にしたと分析している。その後、方谷は大政奉還の奏文を起草するが、通底する考え方は、「混乱の中で、天皇を尊び、徳川家を守り、如何にすれば同じ日本人同士が戦うことを避けることができるのか」ということであった。徳川第15代将軍慶喜公の曾孫徳川斉正氏は、本書の序に「方谷に支えられて重責を果たした人々の子孫の一人として、方谷の往時の労苦は察するに余りある。」との文を寄せている。今回、「山田方谷星」という小惑星があり、命名者は、郷土の偉人が天から見守り続けていることへ思いを馳せてほしいとしていたことを知った。飛龍は、夢を追って天に昇り、そして星になったのである。44 ファイナンス 2020 Apr.ファイナンスライブラリーFINANCE LIBRARYファイナンスライブラリーライブラリー

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