ファイナンス 2020年3月号 Vol.55 No.12
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西洋の城郭都市の中心が“広場”とすれば、山と川に囲まれた日本の街の中心は“道”である。中心になる道には最も高い価格がつく。その道が街の中心である理由もあるはずだ。相続税評価のため道路別に付された地価の目安、路線価は1955年(昭和30年)に遡って調べることができる。当時の路線価図を見ると今とはだいぶ違っていることに気づく。郊外開発の前で所載範囲は狭く街自体がコンパクトだった。最高路線価地点が江戸期から続く旧街道だったり、河岸だったりするところにその街が元々宿場町、城下町、湊町だった痕跡がうかがえる。昭和から平成にかけての路線価図の変化はその街の発展史を示している。都市化とともに所載範囲が拡大。最高路線価地点も時代とともに移転した。旧街道から駅前、地方には駅前から郊外のバイパスに移転した中小都市もある。背景にはどのような変化があったのか。今昔の路線価図を手がかりに中心市街地の栄枯盛衰をたどってみたい。舟運で栄えた石巻第1回は人口15万人弱、仙台市に次ぐ宮城県第二の都市の石巻市である。北上川の河口にあり、古くは江戸向け移出米の積替え港として栄えた。流域諸藩の蔵屋敷が並び、一本マストの千石舟が風待ちをしたところである。元々は川の中州と対岸が街だった。この組み合わせは大阪の中之島やニューヨークと同じだ。石巻の中洲はそこにある石ノ森萬画館に掛けて「マンガッタン島」という通称を持つ。図1は1967年(昭和42年)の路線価図で、概ねこの範囲が発祥以来の中心街だ。当時の最高路線価は「橋通り」にあった。中洲を経て対岸を渡す「内海橋」に続く道だ。街一番の繁華街で丸光百貨店の石巻店があった(同じ年にすぐ近くの警察署の場所に移転)。通り沿いには七十七銀行石巻支店もあった。河岸には牡鹿半島航路の発着所があり昭和に至るまで交通の拠点だった。河口のほうには魚市場があり寄港した漁師で賑わったようだ。路線価図にある「東北館」の前身は1914年(大正3年)に開業した石巻初の活動写真館だ。鉄道は1912年(大正元年)に開通。石巻駅は当時の市街地の外側にできた。今でいう郊外だが、時代とともに求心力を帯びてくる。人通りが増え、駅と橋通りを結ぶ「立町通り」にアーケードができたのが1971年(昭和46年)。路線価は上昇し1975年(昭和50年)には地元紙に「橋通りと並んだ立町二丁目」の見出しが躍った。当時の乗用車普及率は20%程度で車図1 石巻の1967年(昭和42年)の路線価図商工会議所電報電話局汽船発着所西内海橋(最高路線価)*橋通り*警察署東北館*-立町通り-注)見づらい文字の補記及び*印を付した補記は筆者による44 ファイナンス 2020 Mar.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第1回 「宮城県石巻市」街の中心は河岸から高速道路ICへ連載路線価でひもとく街の歴史

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