ファイナンス 2020年2月号 Vol.55 No.11
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想像しうる最も不快な悲鳴か耳障りな叫びである。…(日本酒を)飲み続けると皆が酔っ払い、その宴会は文字通り酒池肉林に変貌してしまう」と、実に容赦ない。こうした書きぶりは、偏見というよりは、彼の階級意識によるものと解すべきかもしれない。本書の最終章である帰国の旅の記述の中では、「教育のない人」への軽蔑と嫌悪が表明されており、船中で知り合った同民族であるスペイン人二人を「誠実で危険はないが、愚かでとんまな人で、その無礼な振る舞いで周りの人を飽き飽きさせる」と評し、彼らを戯画化して描いている。訳者はニコラスの日本人観について、「キリスト教的視点からの日本人の宗教観・倫理観欠如に対する批判と、日本人は物真似が得意で創造性に欠けるという指摘は、ほかの外国人の観察に比べて格段に厳しいように見える」と指摘する。そして訳者は、背景として、コロンビアが典型的なキリスト教国家であったことと、物真似してでも欧米に追いつきたいという当時の日本の潮流を挙げる。筆者は、これに加えて前述の階級意識も挙げたい。日本の家屋や調度についての記述中、ニコラスは、「日本人は、あの中国人よりも慎ましさや遠慮の観念に乏しく、…生来の羞恥心に欠ける。真の倫理観のない宗教と躾の悪い教育が、この国民の生活習慣におけるだらしなさと、その住民の恥も品格もまったくない動物のごとき生活との原因であるに違いない」と述べる。頑なな国粋派の筆者などは、思わず拳を握りしめてしまう。しかし考えてみれば、コロンビアの裕福な家庭に生まれ、初等教育をニューヨークで中・高等教育をパリで受けた当時最高級のインテリであり、中国人苦力のハバナのサトウキビ農園への手配で富を築いていたニコラスが、明治初期の東京の長屋暮らしの庶民の生活を、上流階級の視点で観察したのであるから、宗教とか躾云々を別にすれば、ある意味で自然な感想なのかもしれない。さて、現代の日本人からすれば驚きを禁じ得ないニコラスの日本人評価の紹介をもう少し続けたい。日本の芸術については、「日本に着いて最初に気が付いたことは、この民族のありのままの気品、趣味と繊細さ、思いやり、およびすべての住民に共通しているように思える美的な素養である」と書き起こすのだが、結局は「この民族の生来のものと思える独自の特徴」と「真の芸術との間にはとても大きな違いと距離が存在し、この真の芸術こそが、まさに日本にないものである」と断言している。日本人の能力やものの考え方については、筆者の血圧がさらに上がるような見解を披露している。曰く「日本人は、生まれつき怠惰で無気力であり、…中国人と異なり、浪費家であり、生きていくためだけの金を稼げば、満足している。…独善的でうわべだけを繕い、…穏やかさと優しさを装って、心の奥底の怒りを隠し、インディオのように、狡賢く、下心があり、また、恨み深い」。曰く「日本人は、どんなにも模倣能力があり、吸収能力が高いとしても、知能が高いとは信じられない。若者は、勉学に没頭し…、新しいことを知ることに懸命であるが、事柄を深く追及する能力に欠け、全体を把握することをせず、どうでもいい細かなことにこだわる。…価値の高い天賦の才能は、創造し、発明するものであり、我々恵まれた人種の特別の能力である」という調子である。コロンビアと日本の現状や、現時点における日本人に対する世界の一般的評価に照らせば、大いに違和感があるが、事実として、明治初年の時点においては、日本人は海外の人からこのようにみられていたということを、我々は本書から学ぶべきであろう。頑なな国粋派の私は、飲んで帰宅すると、近隣の国々や発展途上の国々に関して、時間軸を考慮しないで、「模倣だ」、「怠惰だ」、「恥を知らない」、「行儀が悪い」と、くだを巻いては家人から注意を受けるのだが、これからは、150年近く前のコロンビア商人の日本人評価をまず思い出すことにしよう。最後に、この興味深い130余年前の旅行記を、現代の我々にも読みやすい平易達意の文章に翻訳された訳者に心から御礼を申し上げたい。また「訳者解説」、「訳者あとがき」での、コロンビアの歴史や時代背景、そしてニコラスに関する補足説明は、簡潔にして行き届いたもので、私のような門外漢の読者にとってまことに有難いものであった。「あとがき」の中で訳者は、明治5年の芸娼妓解放令の契機となったマリア・ルス号事件とニコラスの商売との関係を指摘している。ニコラスが手配した苦力たちが、明治5年7月に横浜沖に停泊するマリア・ルス号に閉じ込められていたのではないかとの訳者の推理は大いに首肯できる。この推理も本書を一層興味深いものにしている。 ファイナンス 2020 Feb.53ファイナンスライブラリーライブラリー

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