2019年12月号 Vol.55 No.9
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は、朝からシャブリを何本も飲み続けて、その死は「緩やかな自殺」といわれた。芹沢は、小学校6年生の時に沼津の将棋会で木村義雄名人に二枚落ちで勝ち、「沼津に天才少年あらわる」と騒がれた。中学2年で上京して高柳八段に弟子入りし、19歳で四段になった。棋士のランクを決める順位戦で4年連続昇級して昭和36年24歳でA級入りして八段になり、「天才芹沢」の名をほしいままにした。阿佐田哲也の筆名で「麻雀放浪記」を書いた作家の色川武大によれば、当時、弟弟子の中原誠(のち16世名人)やかわいがっていた米長邦雄(佐瀬勇次名誉九段門下、のち永世棋聖)と呑むときの勘定はすべて芹沢持ちで、芹沢が名人になったらそれまでの勘定の総和の倍を支払えという賭けをしていたという(「男の花道」、新潮文庫「棋士という人生」収録)。しかし自他ともに認める名人候補ながら芹沢は、(A級を勝ち抜いて)名人への挑戦権を得ることができないまま、A級在位わずか2年でB級1組に落ちた。その後長く、激戦のB級1組を維持したが、再びA級に戻ることはできなかった。自身を天才と信じていた芹沢は、「その気になればいつでも勝てると思っていたから、その気にならず負ける癖がついてしまった」と言っていたという。(小心翼々と生きるサラリーマンとしては、一度こういうセリフを言ってみたいものだ。)将棋では無冠のままであったが、「天才芹沢」はマルチな分野で天才ぶりを発揮し、タレント、文章家としても活躍した。しかし、名人への望みを断たれてからも名人位への思いは強く、「名人になるには天から選ばれなければならない。俺は好かれもしなければ、選ばれもしなかった」と言っていたという。昭和44年、芹沢と中原の対戦で勝った方がA級に上がれるという順位戦があった。芹沢は終始優勢に進めながら終盤逆転された。師匠の高柳によれば、この一番で芹澤には「俺は名人になれないんだ」という思いが決定的になった(「愛弟子・芹澤博文の死」、前掲「棋士という人生」収録)。中原は2年後A級を勝ち抜いて名人戦に駒を進め、大山康晴を破り名人位を獲る。一方芹沢はその後さしたる成績を残していないが、将来の名人と早くから肩入れしていた谷川浩司(17世名人有資格者)との昭和56年のB1順位戦では、酒を断って体調を整え、見事に谷川を破っている。芹沢は(その真意・背景の記述は略すが)昭和57年に「わざと負けて落ちるところまで降級し、それから全勝して昇級して見せる」という対局全敗宣言をして物議を醸した。これに関して、同じく酒飲みかつマルチタレントで、彼と親しかった内藤國雄九段は、「当然ながら、落ちる方はなんの苦もなく予定通り進んだ。そして公約の切り返しの時期がくる。…今度は予定通りいかない。…棋勢をよくしても、相手に粘られて勝ち切ることができない。それだけの体力がすでになくなっていたのである。…生きる拠りどころとしていた(本気を出せばほとんどの者に負けないという)最後のプライド」が砕け散り、芹沢の飲み方が一段と荒くなったと述べている(内藤著「私の愛した勝負師たち」毎日コミュニケーションズ)。内藤は、芹沢は豪快な藤沢秀行を尊敬しており、呑む打つ買うの三拍子にのめり込んだのも藤沢の影響だとしている。そして同じく藤沢に惚れこみ兄事した米長は藤沢から三拍子以外のもの、すなわち「本職」への強烈な情熱を吸収したと述べ、芹沢がそうでなかったとして惜しんでいる。これに対し、色川は、その独特の勝負観から、前掲書の中で「芹さんが低迷したのは、酒色のせいではない。彼の将棋が、どこか一つ、列強を勝ちしのいでいけないものがあったからだ。彼を酒色にふけらしめたのは、その点に気づきはじめた内心だ。…ひと口に強い弱いといってもこのクラスは天才同士の戦いで…体力、人格、気質、運、その他あらゆるもの。どこかが弱ければそこをつかれる。…将棋の実力で将来を展望していた芹澤少年が、次第に、棋力だけでは解決できないものの壁に打ぶちちあたる…まずいことに、芹さんは頭脳明晰だった。感受性も抜群にすぐれていた。そうして、芹さんが手をとって教えた弟分、中原、米長が、後から躍進してきた」と指摘している。(因みに芹沢の葬儀では、中原が葬儀委員長、米長が副委員長を務めている。)そして色川は、芹沢の死を「天才としてしか生きられない人の観念的自殺」と評している。芹沢の師匠の高柳も、どうして芹沢は将棋を投げ、酒を飲まずにいられなかったかということの理由として、「天才芹沢」の挫折感を挙げている。ただし、それは世上言われている中原に抜かれたことではなく、4歳年下の加藤一二三九段に差をつけられたことだと ファイナンス 2019 Dec.69新々 私の週末料理日記 その34連載私の週末 料理日記

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