2019年11月号 Vol.55 No.8
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形の複雑な組み合わせ」で、「それにしても伊藤若冲の別号「心遠舘」をそのまま借りて名付けられたこのジョー・プライス邸は、その名に恥じぬ風変わりな、そして美しい建築であった」、家の中の一角に行き、「ジョー氏が壁をトンと押すと、それはくるりと廻って、中が「心遠舘」の中枢たる美術館であった。」と言う。ある美術史家はまた、心遠館の「特色は、プライス氏の注文により、若冲、酒井抱一、鈴木其一などを主とする作品の保存と鑑賞を主体として設計されていることである。部屋は直径30米。伝統的な床の間方式と共に、広間における屏風鑑賞の形式に細心の注意が払われ、また人工光線を排して、自然光による柔らかな明るさも心地よく、しかも部屋の中央に池をしつらえて、乾燥と野火に対する警戒に万全を期している。お見事というより、紙と絹、屏風と掛幅という日本美術独特の画面形式を生かしての鑑賞方法について、これほど細心な神経を使ってくれるのかと思うと、ただただありがたく思うのみである。」と語る。誠に残念ながら、この「心遠館」は、1996年に放火により焼失してしまったが、プライスは自宅の展示室を日本美術の研究者や学生のために開放し、「私は自分のことをコレクターではなく、“文化研究センター”の運営者だと思っています」と語る。外国人コレクターによる日本画の海外流出を憂う声もあるが、日本に残っていたら戦災や災害で滅失していたものが、外国で良好な状態で保存されるのであれば、ましてやジョー・プライスのように海外でその魅力を紹介してもらえるのなら、悪い話ではなく、むしろ、歓迎すべきことかもしれない。ジョー・プライスの尽力により、アメリカや日本では若冲が知られるようになったが、欧州では、最近までルーブル美術館の館長でも知らなかったという。昨年、日仏国交樹立160周年を祝う日本文化展、Japonismes 2018で、パリにて宮内庁三の丸尚三館所蔵の動植綵絵などを欧州で初公開。フランス訪問中だった皇太子時代の天皇陛下もオープニングにご出席された。⓬手塚治虫も信頼した米国の漫画ブームの火付け役 ― フレデリック・ショット(1950年‐)米国のマンガブームの火付け役の功績により国際交流基金賞を受賞したフレデリック・ショット氏マンガもまた、現代日本文化の重要な要素。作家、マンガ評論家、翻訳者のフレデリック・ショットは、日本の高校を卒業してアメリカの大学に進み、3年生の時に国際基督教大学(ICU)に留学。その頃「大学生の間でマンガがブームになっていたらしく、周りにいる学生のほとんどがマンガを読んでいましたね。これは面白い現象だなと思いながら、自分もマンガを読み始めたわけです。…ある日、大学の友人が僕のそばに来て「絶対に面白いから」と言ってマンガの単行本を差し出しました。…まるで宝物でも手放すようにして手塚治虫さんの『火の鳥』を貸してくれたんです。…さっそく読んでみると、人生や生きる意味など、多感な20代の自分が悩んだり考えたりしていることが描かれている。『火の鳥』はすごいと思いました。一瞬にして虜になった。つまり、日本マンガにハマったわけです。僕の人生はここで狂ってしまいました(笑)。」と語る。1977年以降、手塚治虫の「鉄腕アトム」をはじめ、池田理代子、松本零士等、数多くの日本の漫画家の作品を翻訳・共訳し、著作、講演、通訳などを通して海外への普及に貢献。昨今の米国におけるマンガ・ブームの火付け役となった。その功績により、2000年に、第4回手塚治虫文化賞特別賞、2009年には、旭日小綬章を受賞。手塚治虫は、通訳や自作の翻訳者として、「ショッ ファイナンス 2019 Nov.37ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan 2019」(下)SPOT

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