ファイナンス 2019年10月号 Vol.55 No.7
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1907年以来、米陸海軍はそれぞれ2人の将校を日本に送り米国大使館で日本語を学習させ、日本の情報収集を担当させたという。1920年代には日本語の暗号解読チームが結成され、米国では戦争に備えて本国陸海軍での語学兵の教育体制が準備され、開戦前に最初のクラスが開校。一流大学から語学の才能に恵まれているドナルド・キーンのような優秀な学生を募り、彼らに日本語を叩き込んだ。この時期にアメリカの陸海軍で要請された日本語の語学将校は5千名余りに上るという。ソ連がスプートニクを打ち上げて、アメリカが大きなショックを受けていたとき、ケネディ大統領が、安全保障のためにアメリカ人が外国のことをもっと知る必要があると訴えて成立した国防教育法は、アメリカ人が注目していなかった言語を勉強させる目的だった。ジェラルド・カーチスはこの国防教育法の奨学資金で日本語の勉強を始め、日本語に魅力を感じた。動詞が最後に来るので最後まで行かないと分からない日本語を勉強すれば、考え方の手法そのものが広がるのではと思い、一生懸命勉強。戦争が終わって20年たっていたのに、戦時中の米軍陸、海軍日本語学校で使用された教材もまだ使われていて、彼は、漢字を何時間練習しても飽きなかったという。さらに日本に行って集中的に勉強しないと上達しないかと考え、1年間日本語を勉強することとなったのが「知日派」の始まりという。東京オリンピックが開催された1964年に初来日し、西荻窪の月10ドル足らずの家賃の部屋に下宿し、近くの大衆食堂で鯖や秋刀魚を食べながら東京の日本研究センターで1年間、日本語を勉強。いったんコロンビア大学に戻り、1年後、博士論文の研究をするため、1966年、再来日。「図書館で調べられる研究なら、優れたジャパン・コレクションを持つコロンビア大学の図書館で勉強すればいい。せっかく日本に滞在するなら日本の現代政治の実態をもっとわかるような研究をしたい」と思い、「文化人類学者がやるようなフィールド・リサーチ(足を使っての実態調査)をして日本の政治を発見したいと考え」、地方の選挙区に入り、候補者の選挙運動を分析すれば、日本の民主主義のグラス・ルーツが分かるとして、候補者の自宅に1年間居候して、「ニューヨーク訛りの大分弁を喋る唯一の人間だ」と自負できるまでになったという。フォード財団の日米議員交流プログラム運営に長年携わったことで、日米双方の政治家と知り合う。歴代総理の多くに直接面識があり、同プログラムに参加した多くのアメリカ議員はのちのアメリカの政界で重要なリーダシップを発揮。ハワード・ベーカー上院議員はレーガン政権の首席補佐官、駐日アメリカ大使、トマス・フォーリー下院議員は下院議長、駐日アメリカ大使、若手の下院議員だったドナルド・ラムズフェルドは、フォード政権の国防長官となり、ブッシュ政権の国防長官。同プログラムに携わった議員たちのほとんどが生涯にわたって日本に関心を持ち続けたという。たまたま2016年の米大統領選挙の翌週、講演を聞いた。日米の政治に精通した彼でも、講演の冒頭、大統領選挙の結果を受けて、「この一週間の間に用意していた講演の内容を全部入れ替えなければならなかった。」と話していた。ジェラルド・カーチスによると、日本研究者は5世代あるという。極めて少数(太平洋戦争が始まった1941年、アメリカの全大学で日本専門家は十数人しかいなかったという。)で、エドウィン・O・ライシャワーのように宣教師の子弟が多かったという第一世代。日本と戦った経験があったため、日本について思い入れが強かったドナルド・キーンのような第二世代。この第二世代が中心となって、政府やフォード、ロックフェラー財団などに働きかけて、地域研究のための支援を仰いだことから、1950年代から1960年代は日本研究の黄金時代となり、その時代にジェラルド・カーチスら、ただ日本に好奇心のある第三世代が生まれたという。その後に来る第四世代、第五世代は多元的だが、強いて言えば、70年代後半から80年代にかけて、アメリカで「日本脅威論」が流布され、日本への批判が高まったことから、第四世代は、日本をより懐疑的な目、批判的な目で見る傾向があり、その後に続く、第五世代は、第三世代の「うまく機能する日本の政治経済システム」への好奇心ではなく、全く逆の「うまく機能しない日本の政治経済システム」への好奇心から出発しているという。ジェラルド・カーチスは、また、最近の知日派について、(1)地域研究が評価されず、大学の教授ポス ファイナンス 2019 Oct.37ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan2019」(上)SPOT

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