ファイナンス 2019年10月号 Vol.55 No.7
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よって、日本は再び1920年代の流れに遡って、国内政治や国際関係を再構築していく可能性があることという見方は、のちに「ライシャワー路線」と呼ばれたという。戦後、助教授としてハーバード大学に戻り、東洋言語や日本史を講じ、ハーバード・燕京研究所長、東アジア研究所長などの要職にあったところ、1961年、ケネディ大統領の要請で日本大使を引き受けた。ハーバード大学の若き助教授時代には、同大学で学んでいたドナルド・キーンとも親しく交流していたという。日本生まれの日本研究の歴史学者であり、ハル夫人は明治の元勲、松方正義の孫娘。駐日大使就任の際には、主要国の元首級の扱いで大歓迎を受け、「ライシャワーブーム」とも言われたという。大使在任中の1964年に米国大使館前で統合失調症の少年に刺されたライシャワー事件は、東京オリンピック、新潟地震、新幹線などと並んで、10大ニュースに入ったという。事件直後に大平外相が見舞い、池田首相も見舞おうとしたが、入院先の虎の門病院は報道陣などでごった返していて一歩も入れなかったという。また、輸血により、日本人の血をもらったのだから、これで自分は日米の「混血」だという発言は、日本人に大歓迎されたという。入院中の虎の門病院には見舞いの電報や手紙、花束、品物は溢れんばかりで、この事件はまた、精神に障害がある人の処遇を見直すきっかけともなったという。ケネディ大統領暗殺後、1966年にジョンソン大統領の慰留を断って大使を辞任後は、再びハーバード大学教授となり、70歳で定年退職後も、執筆・講演活動を続け、ハーバード大学の日本研究所もエドウィン・O.ライシャワー研究所と名付けられ、教授、学生、近辺の日本研究者の集う場所として各種の会合を主催し、訪れる人に便宜を提供。日本から帰国後に長年住んでいたボストン郊外の家も、ライシャワーハウスとしてゲスト・ハウス並びにカンファランス・センターとして利用されているという。9『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で米国人に警鐘 ― エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学フェアバンク東アジア研究センター所長)(1930-)長年にわたって日本研究の発展と若手日本研究者の指導・育成に尽力するとともに、我が国との学術交流に努めた。また、「日本の中産階級」、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」等の優れた著作をはじめとし、日本研究を通じて諸外国における日本理解の増進及び日米関係の発展に多大な貢献をした。占領政策が終わり、戦後の高度経済成長時代になると、米国でも日本経済への関心が高まるのか、エズラ・ヴォーゲルは、1958年、ハーバード大学社会学科で博士号を取得し、2年間、他の外国人とは一切離れて、日本語を勉強し、「日本の生活様式の中に飲み込まれるようにして暮らし」、日本の家族を詳細に調査し、その心理的特性を研究。その結果は「日本の新中産階級(Japan’s New Middle Class)になって出版され、アメリカの日本研究者の必読の書だったという。日本研究に着手してから、毎年日本を訪れ、「20年間というもの、日本の社会に対する私の好奇心は湧き上がる泉のごとくで、決して涸れることはなかった。」といい、1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワンーアメリカへの教訓』を出版。その20年間に驚くほどの飛躍・発展を遂げていた日本について、「日本の幾多の成功をまともに正視し、それらの提起する問題点をつぶさに検討してみることは、今のアメリカにとって、国の将来にかかわる急務である」との問題意識で書かれた。当時の日本について、「少ない資源にかかわらず、世界のどの国よりも脱工業化社会の直面する基本的問題の多くを、最も巧みに処理してきたという確信を持つにいたった。私が日本に対して世界一という言葉を使うのは、実にこの意味においてなのである」という。日本人の成功の原因は伝統的国民性、昔ながらの美徳によるものではなく、むしろ、日本独特の組織力、政策、計画によって意図的にもたらされたものであるという。アメリカ人は困難にぶつかってもしり込みせず、学び、適応していくと信じて生まれたともいうこの本は、社会の様々な面で行き詰まりを感じているアメリカにとって、現在の日本のや ファイナンス 2019 Oct.35ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan2019」(上)SPOT

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