ファイナンス 2019年10月号 Vol.55 No.7
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亡命。ロシア革命の際のフィンランドへの逃亡紀を書いた『赤露の人質日記』は、パリに着いてすぐに日本語で直接書きおろされ、『大阪朝日新聞』紙上で連載。パリでは、フランス国内初のフランス語による日本専門の雑誌『日本と極東』を発案。当時の彼はパリのギメ美術館の研究助手を務めながら、駐仏日本大使館の通訳として働いていた。1908年から1917年にかけて日本に三度滞在し、東京帝国大学では日本の文学と美術を学び、東京の文壇や歌舞伎界とも親交があったため、当時のパリにおいては、同時代の日本とその文化について最も精通した人間の一人として抜きんでた存在だったという。エリセーエフが中心となって、『日本と極東』誌において、1909年から1923年までに書かれた夏目漱石、森鴎外、永井荷風、志賀直哉、谷崎潤一郎、菊池寛などの主要作家の短編12篇という形で、同時代の日本の文豪の初のフランス語翻訳を掲載し、その後、彼らが国際的名声を得るきっかけにもなったという。パリにいながらにして『中央公論』や『新小説』といった主要な文芸誌や、『近代文芸史論』といった最新の文学史の本を読み、「日本と極東」において「我々は日本文学を、現在、最も活き活きとした文学のひとつと見なすことができる。ニッポンの作家たちは世界文学において重要な位置を占めるにふさわしいと思われる」と書いている。彼の「赤露の逃亡日記」は読み物として面白いかはともかく、本人は相当に洒脱で面白い人だったようだ。大学の「「卒業祝い」で柳橋のきれいどころを総揚げして隅田川に屋形船を繰り出し」、「打ち上げは吉原」だった」といい、羽振りが良く、江戸っ子流の日本語の達者なこのロシア人は芸者衆には文字通りモテモテだったという。亡命後、パリをへて、1935年から仏文部省からハーバード大学に派遣され、東洋語学部教授兼、同大の東洋研究所であるイェンチン研究所の初代所長として1957年まで、23年間、ジャパノロジスト(日本学者、日本研究家)を育成。第二代所長のエドウィン・O・ライシャワー元駐日大使もその薫陶を受けた一人。ドナルド・キーンも当時のアメリカではもっとも有名な、伝説的な日本文学の教授だった彼に学んだという。ただし、ドナルド・キーンは「彼の文学史の授業は、古いノートを一本調子に読み上げるだけの無味乾燥なもので、新たな情熱を感じさせるものはなにもありませんでした。」として「すっかり失望されられました」という。米軍が京都を攻撃しないようにマッカーサー元帥に要請し、晩年、訪れた日本人にニコニコしながら「先日は折悪しくフロをとっておりまして、武士はフンドシもつけずに電話に出るのは失礼かと思いましてー」といって流暢な江戸便で出迎えたという。7フルブライト奨学金を創設 ― J・ウィリアム・フルブライト(元米国上院議員、フルブライト教育計画推進者)(1905年~1995年)Senator J. William Fulbright(日米教育委員会提供)フルブライト奨学金を創設に寄与した米国の上院議員。1946年に提案され、1960年フルブライト・ヘイズ法に拡大吸収されたフルブライト法の提案者として、戦後の日米相互理解の上で極めて重要な役割を果たした。戦争はまた、国際交流の必要性を実感させるフルブライトは、諸国民の間での人物交流による相互理解が悲惨な戦争勃発を防げるとの強い信念から、1945年9月にアメリカと世界各国との教育交流計画を議会に提出し、1946年8月に批准された(フルブライト法と呼ばれる)。そのプログラムにより日本を含め現在160ヶ国以上が参加し、これまでに世界中で約36万人以上が恩恵を受けてきた。フルブライト計画により渡米した邦人及び来日した米国人日本研究者の数は5,000名以上の多数に上るが、これら両国から派遣されたいわゆるフルブライターは、帰国後それぞれの国の学術、文化のみならず政界、官界、実業界でも多数活躍している。日本人の ファイナンス 2019 Oct.33ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan2019」(上)SPOT

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