ファイナンス 2019年10月号 Vol.55 No.7
36/88

浮き彫りにする。“菊の優美と刀の殺伐”に象徴される日本文化の型を探り当て、その本質を批判的かつ深く洞察した、第一級の日本人論」とされる。生涯、日本に一度も行ったことがない作者がインターネットもない時代に日本の精神生活や文化についてこれだけの分析をしていること、さらに、雑誌上の読者からの身の上相談など、分析の前提となる膨大な事実を集めたことにも驚く。本書について、当時の日本人がどのように感じたかについては、本書巻末の「評価と批判」によると、「私は…あの敗戦の直後に、本書を一読した時の深い感銘を忘れることができない。…本書は今までの多くの本のどれにもない新しい感覚と深く鋭い分析とを持っている。私はすべての日本人が本書を読むことを希望する。」という。6夏目漱石とも交流したロシアの大富豪 ― セルジュ・エリセーエフ(ハーバード大学教授、イェンチン研究所所長/日本研究)(1889年‐1975年)帝政ロシア時代のサンクト・ペテルブルクのエリセーエフ商会(ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」やトルストイの「アンナ・カレーニナ」にも出てくる、当時の最高多額納税者。)の御曹司で、アメリカにおけるジャパノロジー(日本学)を打ち立てたロシア人。生家は、今も高級食料品店として現存するという。1900年、11歳でパリ万博の日本館を見て素晴らしい異文化の存在に感動、日露戦争中は報道を通じて日本への関心を高める。戦争は相手国を理解しようとするきっかけとなるのか、1904年~1905年の日露戦争の敗因を理解しようとして日本研究を決意したという。1907年に18歳でベルリン大学で日本語を学び始め、後に広辞苑の編者ともなった言語学者、新村出と知り合い、その勧めで翌年にはもう「英利世夫」の名で東京帝國大学文学科入学。ベルリン大学の教室で新村がドイツ語で「失敬」と挨拶したところ、その学生が「どうぞ」と日本語で会釈したという出会いから新村との付き合いが始まったという。「古事記、万葉集から平安文学、鎌倉文学、室町文学、徳川文学史の講義を受け、みちのくを行脚して書き上げた卒論芭蕉研究」は破格の評価を受け、「成績は上位3位に次ぐ優秀さ」で、明治天皇の最後の行幸となった「卒業式では明治天皇の前に銀時計組に伍して並ぶことを許された」という。「その間、日本語を読み、聴き、話せるようになるために東京は本郷弥生町の借家で家庭教師三人から毎日、朝八時から夜八時までの特訓を受けたという。」借家といっても、弥生町の8つの部屋の庭付きの借家で女中を3人使っていたという。その頃、夏目漱石の弟子と知り合い、漱石に紹介され、漱石の自宅で開かれていた木曜会に出席、人脈を広げ、芥川龍之介、谷崎潤一郎、永井荷風、内田百聞、菊池寛、芦田均ら「明治大正の文壇、社交界の錚々たる人士と親交を重ね、自らも自宅に荷風などを招きエリセーエフ文学サロンを開いた。」という。ロシア革命で投獄され、フィンランド経由でパリに国立国会図書館デジタルコレクションより エリセーエフが日本館を見て感動したという1900年のパリ万博 世界一周パノラマ舘の日本芸者達32 ファイナンス 2019 Oct.SPOT

元のページ  ../index.html#36

このブックを見る