ファイナンス 2019年10月号 Vol.55 No.7
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最初に日本文学に出会った本だといわれる。帰国後、コロンビア大学助教授に就任し、日本語・日本文学を教える。70有余年に及ぶ日本研究による著作は膨大で、ドナルド・キーン全集だけでも全15巻。かつては日本文学の翻訳は大体英語によるもので、英語から独、仏、スペイン、イタリア語に訳されていたという。日本文学を研究するに英語でなければ、というのはドナルド・キーンの功績によるという。初来日した1953年「当時、日本文学を学ぶ外国人留学生はほんの数人しかいなかったから、高名な作家も…喜んで自宅に迎え入れ、時間も気にせずに接してくれた」幸運と、京都に住み始めて間もなく、のちに文部大臣にもなった永井道雄と偶然出会い、そのお蔭で彼の幼馴染の中央公論社社長、嶋中鵬二とも出会い、多くの作家を紹介されたという幸運もあり、日本人でもめったにないことだが、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎ら文豪とも親しく交流。特に三島由紀夫や安部公房は親友で、三島由紀夫が亡くなった時は、三島の机の上にドナルド・キーン宛ての手紙が残されていたという。能、文楽、歌舞伎に通じ、ことに能については、「どうしてもアメリカ人に能を見せたいという気持ち」から、本職の興行師に「日本でさえ難解とされるものが、外国でわかるか」などど断られたため、自分で各地の大学に連絡をとって資金を集め、能のアメリカ公演を実現。アメリカ、メキシコでの合計36回の公演はどこへ行っても大変な成功を収め、以来、能の公演が海外でも行われるようになっているという。今月まで日比谷公園内にある日比谷図書文化館で、ドナルド・キーンを偲ぶ展示が行われていて、米海軍日本語学校で使った日本語の教科書や辞書、彼の半生を記した「かなえられた願いー日本人になること」が掲載された小学校の国語の教科書などが展示されている。「戦争中に日本語を勉強した仲間たちが、戦後日本の文化の理解者になり、研究者になって次世代に日本語や日本の文化を伝えた。いまはその教え子が指導者となり、また次の世代を育てている。今や日本文学は世界中の多くの人が知るところとなった。戦争前には考えられなかったことである。あの戦争で日本は負けたが、日本文化は勝利を収めた。これは私の確信するところである。」と語る。東日本大震災後、日本に帰化。昨年、ロンドンで古浄瑠璃のイベントでメインスピーカーとなる予定だったのが、体調を崩されて参加されず、心配していた矢先だった。近くに来られる機会があったので、直接お話しできたらと思い、全集を読み進めていたが、それも叶わぬこととなったのは残念。ここでは、ドナルド・キーンのように日米文化交流に貢献した人たちを中心にペリー来航以来の日米文化交流を振り返り、今年、米国で日本や日本文化への理解・関心の裾野を広げる目的で開催されている「Japan2019」をご紹介することとしたい。2ペリー来航(1853年、1854年)国立国会図書館デジタルコレクションより ペルリ提督日本遠征記日米の交流を遡ると、1853年の黒船来航に至る。ペリー提督が歴史家に編纂を依頼し、監修し、米国議会上院に提出した提督の日本遠征の報告書の翻訳「ペリー提督日本遠征記」によると、「日本という帝國は、昔からあらゆる面で有識者の並々ならぬ関心の的となってきた。加えて、200年来の鎖国政策がこの珍しい国の社会制度を神秘のベールでおおい隠そうとした結果、日本への関心はますます高まった。…分野は種々雑多であれ、そこには人々の心情をひとつに結び付ける一つの結びつける共通の関心がある。宗教家も哲学者も、航海家も博物学者も、また実業家も文学者も、この豊かな魅力溢れる研究領域を徹底的に調査してみたいという思いに、みな等しく駆られていたのである。」として、1295年、マルコポーロがヨーロッパの人々に体験談を紹介し、コロンブスが到着すると考 ファイナンス 2019 Oct.29ペリー来航以来の日米文化交流と「Japan2019」(上)SPOT

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