ファイナンス 2019年7月号 Vol.55 No.4
76/80

新潟港貿易が低迷したのは、産業が育っていなかったこと、開国が諸外国の圧力であり貿易を行わなくても十分自活できたことなどが理由ですが、それ以外にも新潟港が信濃川の河口港であり、上流から流入する大量の土砂のために水深が浅く大型船が直接入港できなかったことも理由の一つです。明治9年(1876年)には「水流ノ関係ヨリ当関ニ沿ヒタル一帯ノ河岸浅瀬トナリ艀船スラ繋留スル能ハサルニ至リ」と新潟税関沿革史に記されています。一説には新潟港は港外で積荷を艀に積み替える必要があり、危険であったため浅瀬や艀の事故に対しては海上保険からの対象から外されていたようです。※10 大蔵省から横浜運上所本局(明治4年(1871年)11月から明治7年(1874年)1月までの間、横浜運上所(税関)が本局、他の運上所(税関)はその支局の関係であった)宛ての通知は、明治6年(1873年)1月4日付であり、新潟税関沿革史にも、 「明治六年一月運上所稱しょう呼こ區く々くナルヲ以テ一定シテ爾じ後ご税關ト稱スヘキ旨達セラル」 と、記されている。 新潟税関支署から新潟海運局へ明治22年(1889年)よりロシア沿海州漁業貿易※11が始まり、漁業従事者の生活用品・漁業用品や青果物、米の輸出の他、水産物の輸入が増加し、明治32年(1899年)からは、新潟で産出された石油の輸出も始まりましたが、輸出入額は全国シェアの1%を超えることはありませんでした。そしてとうとう明治35年(1902年)10月31日を以て新潟税関は廃止され、翌日の11月1日横浜税関新潟税関支署として再出発することになりました。大正15年(1926年)に念願であった県営埠頭、臨港埠頭が完成し、大型船が埠頭に着岸することが可能になると貨物列車が埠頭まで乗り入れられるように線路が敷設され、新潟港の利便性が格段に向上しました。また、昭和6年(1931年)には上越線が開通し、首都圏と日本海対岸とを結ぶ最短距離の港になり、日本海側の拠点港として、最盛期には取扱貨物量が270万トンに達しました。しかし、第二次世界大戦が勃発して戦闘が激化すると貿易量は次第に縮小し、昭和18年(1943年)11月1日、ついに税関は廃止(海運局統合)され、横浜税関新潟税関支署も新潟海運局※12に統合されました。戦争末期には新潟港に大量の機雷が投下され、港湾機能のほとんどがマヒしてしまいました。※11 日本人がロシア沿海州や樺太沿岸に出漁し、水産物を塩鮭・塩鱒・筋子などに加工して輸入。※12 さらに、昭和20年(1945年)5月31日、関東海運局新潟支局に改称。ただし終戦後、海運局の英語訳の「Maritime Bureau」標記の腕章では占領軍に全く通用せず、「Customs」標記の腕章を着用していた。とのエピソードがある。(鵜飼吉行氏著「税関再開の先駆者」かすとむす第1巻第4号収録) 終戦からの復興昭和21年(1946年)6月1日に税関が復活すると同時に、横浜税関新潟税関支署と改称しました。新潟港は主に大陸からの引揚者の拠点港の一つになります。昭和30年(1955年)に新潟税関支署は東京税関の管轄となり、東京税関新潟税関支署と改称し、現在に至っています。新潟県などは、入港隻数・取扱貨物量の増大と信濃川から流入する土砂を定期的に浚渫する必要があるという構造的な制約から、新港の建設計画が立案され新潟市と北蒲原郡聖籠村(現聖籠町)との境付近の海岸を開削して、新潟東港を建設することに決定し、昭和38年(1963年)に着工されました。その矢先の昭和39年(1964年)6月16日に発生した新潟地震により、激しい揺れと地盤の液状化現象が起こり、さらに津波の来襲で、岸壁の損壊や石油タンク火災などにより当時の金額で総額216億円に及ぶ壊滅的な被害が生じ、税関庁舎も多大な被害を受けました。昭和41年(1966年)、新潟税関支署は、新潟運上所時代から使用していた庁舎から、現在の新潟港湾合同庁舎に移転し、昭和44年(1969年)旧庁舎は国の重要文化財に、敷地は史跡にそれぞれ指定されました。地震からの復旧後施設などの拡充や対岸貿易によって発展を続け、昭和42年(1967年)日本海側初の特定重要港湾(現在の国際拠点港)に指定され、昭和44年(1969年)11月には新潟東港が開港※13します。これ以後、従来の新潟港は新潟西港と通称されます。新潟東港には、石油備蓄基地や液化天然ガス・石油製品受け入れ設備の他、国際コンテナ航路開設に伴うガントリークレーン設置など、工業・商業港としての体72 ファイナンス 2019 Jul.連載各地の話題

元のページ  ../index.html#76

このブックを見る