ファイナンス 2019年7月号 Vol.55 No.4
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各地の話題政6年12月9日(1860年1月1日)に新潟港を開港することが決まりました。安政の5か国条約で開港することになった港は、神奈川(横浜)、箱館(函館)、長崎、新潟、兵庫(神戸)で、開港5港と呼ばれています。開港5港は全て幕府の直轄地であり、新潟港は日本海側最大の港町であったことから、新潟に決定したようです。しかしその後の尊王攘夷運動などにより新潟港の開港は再三にわたり延期されました。新潟港は河口港であり、水深が浅いため大型船が入港できず、「他の港を開港すべきである。」との要求もありましたが、佐渡・夷港(両津港)を補助港として開港させることを条件に、明治元年11月19日(1869年1月1日)にようやく開港しました(新潟港開港までに大阪港が開港したため6番目の開港)。開港と同時に現在の税関業務を行う「新潟運上所」が開設され、これが新潟税関支署の前身になります。発足当時の新潟運上所は地方機関である新潟府※7に属しており、国(大蔵省)への移管は明治8年(1878年)のことです。※6 5条約とも、ほぼ同じ内容。日仏修好通商条約については、ファイナンス平成30年6月号から10回にわたり連載された、在フランス日本国大使館参事官有利浩一郎氏が書かれた、「日仏修好通商条約その内容とフランス側文献から見た交渉過程」に条約内容と、交渉過程が詳しく記述されている。また当時ロシアには、「魯西亜」の字があてられていた。※7 明治維新直後、江戸町奉行所や遠国奉行所の支配地を「府」と呼んだ。明治2年7月(1869年8月)東京、京都、大阪以外は県に改称。 開港直後の新潟港明治2年4月7日(1869年5月18日)第1船としてイギリス帆船ステギ号が入港しました。この年は合計で18隻の外国貿易船が入港し、主な輸出品は、蚕卵紙※8・水菓子(果物)・種人参(朝鮮人参)で、輸入品は、ライフル・毛織衣類・時計などでした。また、この明治2年(1869年)に新潟運上所庁舎が建設されました。この建設は大変な苦労があったようで、新潟税関沿革史※9には、「明治二年正月地ヲ新潟ノ東北信濃川ヲ瀬スル字船繋場ニトシ土功ヲ起ス然レトモ該地一帯ハ葭生ニシテ之レカ埋立テニハ非常ノ辛酸ヲ経時ニハ土工三々五々手ヲ携ヘ其成功ヲ嘲あざリ去ラントスルモノアリ慰い撫ぶ督とく励れい漸ようやク敷地四千四百六十九坪七合七勺ヲ得テ爰ここニ假かり運上所ヲ建設シ同時ニ洋風廰舎一棟石庫土蔵水柵さく等ノ新営ニ着手シ同年十月竣功ス之ニ要セシ経費不明ナリ」と記されています。半年前には新潟の街が戊辰戦争の戦場になっていたことを考えると、明治政府の開港に対する強い意志を感じます。辛酸を経て建設された新潟運上所庁舎は現存しており、新潟市歴史博物館「みなとぴあ」として、一般に公開されています。木造庁舎として現存するものとしては、最古の部類に入るものではないでしょうか。※8 蚕卵紙は厚紙に蚕の卵を産み付けたもので、明治初期の代表的な輸出品。※9 明治37年(1904年)横浜税関が発行。これは創成期の新潟税関及び新潟港を知る上での第1級の資料で、国立国会図書館デジタルコレクションで自由に閲覧やダウンロードが可能。当時の横浜・函館・大阪・神戸・長崎の各税関の沿革史もあり、特に横浜税関沿革史には運上所時代や税関発足時の制服の記述や税関旗制定の記述などがあって興味深い。重要文化財 旧新潟税関庁舎(新潟運上所庁舎)明治2年(1869年)建築 低迷する貿易翌年の明治3年(1870年)には外国貿易船の入港は20隻を数えましたが、その後は1桁の入港の年が続きます。当時は、「運上所」「税舘」「税関」等名称が不統一でしたが、明治5年11月28日(1872年12月28日)に税関に統一※10され、新潟運上所から新潟税関に改称しました。明治11年(1877年)に中国で大凶作となり、一時的に米の輸出が増加しましたが、その後は低迷が続き、明治18年(1885年)、19年(1886年)の2年間は外国貿易船・輸出入貨物が皆無という、新潟税関開店休業状態になってしまいます。 ファイナンス 2019 Jul.71連載各地の話題

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