ファイナンス 2019年7月号 Vol.55 No.4
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新潟港3,500隻を数えるほどであったそうです。享保15年(1730年)新発田藩は、阿賀野川流域の低湿地を干拓するために、松ヶ崎(現在の新潟市北区松浜)に阿賀野川の堀切(放水路)を建設しました。計画では、通常の水量は従来通りに流し、干拓のために増加した分だけを堀切に流すというものでしたが、翌年、雪解け水で増水した川は、堀切の堰を破壊して一気に流れ込み、堀切の幅を広げ、ついには阿賀野川の本流になってしまいました。これが現在の阿賀野川の河口です。そのため以前の河口の水量が著しく減少し、砂の堆積により水深も浅くなったことから※5、千石船の様な大型船は港に入れなくなり、沖で艀はしけを使って貨物の積降を行う状態となってしまいました。それでも文化年間(1804年~1818年)のころには蝦夷地への航路が開かれ、海産物の移入や米の移出が増加したため新潟湊には活気がありました。※2 「津」「湊」「港」はいずれも港湾を表すことばで、古事記・日本書紀では「水門」と記す。新潟では古くから「新潟津」が使われ、江戸時代初頭から「新潟湊」、開港後は「新潟港」と呼ぶのが、一般的であった。※3 西堀・東堀は昭和39年(1964年)までに埋められ現在は道路になっており、西堀通り・東堀通りと呼ばれている。※4 千石船とは本来、米1,000石を積める日本の木造帆船の意味であったが、大型帆船の別名となり江戸時代後期には、米約1,800石を積めるものまで出現した。米1石は容量2.5俵(約180ℓ)重量約150㎏。※5 安政4年(1857年)に作成された海図では、河口付近で最も深いところでも1.8mとの記載がある。 開港への足音天保14年(1843年)、新潟町は長岡藩の所領から幕府の直轄地(天領)になりました。これを新潟上知と言います。新潟上知の理由は、新潟湊を舞台とした薩摩藩と新潟商人の抜け荷(密輸)が発覚したことです(唐物屋事件)。また、この当時には外国船が日本近海を航行していたことから、新潟の沿岸警備の強化をすることも理由の一つでした。安政5年(1858年)、米・蘭・魯(露)・英・仏との修好通商条約※6(安政の5か国条約)によって、安新潟湊之真景(安政6年(1859年))新潟市歴史博物館提供開港前にも外国船が入港しているのがわかる70 ファイナンス 2019 Jul.連載各地の話題

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