ファイナンス 2019年7月号 Vol.55 No.4
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各地の話題 はじめに古来より日本海側有数の港として発展してきた新潟港は、明治元年11月19日(1869年1月1日※1)に開港され、国際貿易港として生まれ変わりました。それ以来新潟の税関は、新潟港と共に時代を歩み、時には名称を変えながらも今年で新潟港開港・新潟税関開設150周年を迎えました。しかしその歩みは、港にとっても税関にとっても決して平坦なものではありませんでした。※1 我が国は明治5年12月2日まで太陰暦を公式に使用(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする改暦ノ布告)していたことから、太陽暦をカッコ書きで記載。 新潟港の誕生新潟港の誕生は、今から1,000年以上前の平安時代、延長5年(927年)に編纂された「延喜式」の中に越後の国津として「蒲かんばらのつ原津」の記述があり、これが文献で確認できる最初のものです。この蒲原津は、信濃川河口右岸にあったと推定されています。国津とは、律令制度において地方から都に送られる税である、貢納物の積出港として定められた港(津)のことです。越後国府は新潟市より100km以上西にある上越市付近にあったと推定されていますが、国津は地理的に中心地であり、信濃川や阿賀野川の水運に恵まれ物品の集積地に適したこの地に定められたようです。新潟の地名が最初に記録されるのは戦国時代になります。蒲原津のほかに阿賀野川河口(現在の河口位置とは異なる)の右岸に沼ぬったりみなと垂湊、信濃川河口の左岸に新にいがたのつ潟津が加わり、合わせて三か津と呼ばれていました。越後の雄・上杉謙信は三か津に代官を置いて拠点とし、軍事・商業的に重要なこの地を掌握しました。しかし三か津のうち蒲原津は、信濃川と阿賀野川に挟まれていたこともあってか、次第に活気が失われていきました。天正9年(1581年)越後北部の武将・新発田家重が新潟津を占領したことを発端に戦乱が繰り広げられ、激しい戦の末、天正15年(1587年)に上杉氏が越後国を統一します。 大河に翻弄される江戸時代に入ると、新潟湊※2は長岡藩、沼垂湊は新発田藩が所領しましたが、寛永8年(1631年)に阿賀野川が信濃川に合流してしまう異変が起きてしまいます。両大河の河道の異動のために、二つの湊はほとんど機能を失ってしまいました。当時の長岡藩の牧野氏は幕府に新潟町の移転を申請し認められ、明暦元年(1655年)に移転しました。この時出来た新潟町が、現在の新潟旧市街の骨格となっています。旧市街中心部の古町通り・本町通り・西堀・東堀※3などもこの時出来ました。沼垂町に至っては貞亨元年(1684年)に現在の地に落ち着くまで、4回も移転することになりました。そのためか、沼垂湊は次第に衰退していきました。その間、明暦年間(1655年~1656年)に幕府によって、日本海側から下関を経由して大坂に至る西回り航路が整備されました。新潟湊は二つの大河の合流により水量が増大したため水深が深くなり、元禄7年(1694年)の書物では、川の中心では30尺(約9m)左右15尺から16尺(約4.5m)あったと記されており、千石船※4が今の白山神社付近(現在の河口から約3km上流)まで行くことが可能で、並ぶ帆柱が「林の如し」だったそうです。最盛期の元禄10年(1697年)には、新潟湊に入港した船は40か国余りから、新潟開港150周年を迎えて東京税関 前新潟税関支署東港出張所 統括審査官小室 正明新潟港 ファイナンス 2019 Jul.69連載各地の話題

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