ファイナンス 2019年7月号 Vol.55 No.4
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外でも、チームメイトの郊外にあるプール付別荘でアサードと呼ばれる肉料理を味わうなど、地球の裏側でも野球を通じて様々な思い出を作ることができました。5 沖縄系移民の歩み最後に、日系人の方々の歩みについて、ごく一部ですがご紹介できればと思います。冒頭で、現在65,000人の日系人コミュニティが存在していると述べましたが、過去から現在に至るまで、日本人からの移民のマジョリティは沖縄の方々です。『アルゼンチン、沖縄移民100年の歩み(2016年出版、在亜沖縄県人連合会)』によれば(以下、特段の断りなければ同書を参照して記述)、日本からの最初の移民は1886年にアルゼンチンに到着した牧野金蔵という方だとされていますが、最初の沖縄からの移民は1908年の笠戸丸によるもので、乗船者781名のうち325名(50家族)が沖縄出身者であったとされます。ブラジルへの最初の移民として、神戸港を出発し、シンガポール、ケープタウンを経由し、ブラジルのサントス港に到着後、コーヒー農園に配属されたものの、日本での宣伝文句とは全く異なる過酷な労働環境から逃げ出し、325名のうち130名がアルゼンチンにたどり着きました。このように、アルゼンチンへの移民の多くは戦前はブラジルやペルーから、戦後はパラグアイやボリビアからの転住者や、移民会社と労働契約を結ばずに渡航する自由移民でした。他の南米諸国への移民と異なるのは、都市部で働く者が多く、文化や生活への順応が早いうちに行われた点です(ブラジル、ペルーでは集団移民が主流であり、移民先でもある程度日本的な生活が維持されていました)。彼らが、故郷から、家族や移民を希望する者を呼び寄せ、移民の連鎖が生まれたことがアルゼンチンに沖縄系が多い最大の理由とされています。今回、日系移民の中でも特に沖縄系に着目してご紹介しようと思った理由は、私の父方の祖父母が共に沖縄生まれであり、私はリトル沖縄とも呼ばれる大阪市の大正区(造船所や製鉄所などの工場が集積していたことから沖縄から働き口を求めて移住者が多く集まったとされる)の祖父母の家でよく沖縄料理を食していた経験から、私自身は大阪出身で沖縄在住の親戚には会ったことすらないものの、沖縄系としてのアイデンティティを有しており、またそれをアルゼンチンの地で意識させられることが多々あったためです。当地で日系人の方々に会った際に、「名前的に沖縄の人だね。沖縄のどこ出身かい。」と何回か聞かれました。知らなかったので、両親に連絡して祖父母が暮らした町を聞きました。その次に聞かれた際にその町を答えると「その町からアルゼンチンに来た仲里という人はいないから、多分君の親戚はこっちにはいないよ。」とのことでした。アルゼンチンの日系コミュニティは非常に組織化されており、沖縄系にいたっては出身地ごとに市町村人会が形成されているようです。そのため、上記のようなことがすぐに把握できるようでした。その他、アルゼンチン政府の人と話していても、「沖縄の名前だね。祖父が沖縄の人で少しだけ日本の血が入っているんだ。」という会話が偶然にも行われたりしました。沖縄からの初期移民は、湾港労働、工場労働、家庭奉公といった労働者として雇用される立場の仕事が圧倒的多数であったものの、1920年代、30年代になるとカフェ経営や運転手など経営者として事業を興すケースが増え、戦後はクリーニング店、野菜つくり、花卉栽培に従事するものが増え、戦後アルゼンチンの日本移民一世を象徴する三大職業として知られ、特にクリーニング店は日本人の代名詞とも言われるほど隆盛したそうです。比較的歳を召されたタクシー運転手から「日本人か。日本人といえば、昔はクリーニング屋を経営しているというイメージだった。とてもいい仕事をしていた。でも今の日本はハイテクの国なんだろう?」と話しかけられたことがあります。アルゼンチン移民の典型的なストーリーとして、一世は、仕事に苦労しながらも子供を熱心に学校の勉強2018年10月28日世界のウチナーンチュの日の様子 ファイナンス 2019 Jul.63海外ウォッチャーFOREIGN WATCHER連載海外 ウォッチャー

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