ファイナンス 2019年6月号 Vol.55 No.3
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私の週末料理日記その325月△日連休中新々連休中バンコクに旅行した。日中街に出ると、とにかく暑かったが、ホテルが高層ビルだったので部屋からの夜景がよかった。家の者が寝た後で、大きなソファにゆったりと寛いで、煌々たるバンコクの夜景を肴にウィスキーを飲むと、LCCのエコノミーシートで窮屈に耐えてここまで来た甲斐があったという気がする。チャオプラヤー川の両岸には高層のホテルがそびえ、その向こうにはライトアップされたワット・アルン(暁の寺院)も見える。川を行きかう船は電飾され、川面が反射してきらきらと光っている。蛇行するチャオプラヤー川を遡行すると、今朝訪ねたアユタヤ遺跡がある。ビルマ軍の侵攻で破壊されたアユタヤ王宮の跡には、レンガ造りの巨大な柱と、建物の土台しか残っていないが、かつてのアユタヤ王朝の栄華を偲ばせる。隣接するワット・プラ・シーサンペットの三基の仏塔を仰ぎ見ると、盛時はさぞや華やかな宮殿であったろうと思う。チャオプラヤー川とその支流の中州にあるアユタヤは、14世紀中葉から、18世紀後半にビルマに滅ばされるまでの400年間アユタヤ王朝の首都であった。チャオプラヤー川の水運は、ヨーロッパと日本を含むアジア各国との貿易による繁栄をアユタヤにもたらした。よく知られているように、アユタヤには日本人町があった。15世紀後半から17世紀前半までが繁栄期で、軍事力と貿易による経済力によって政治的にも一大勢力を有していた。「史実山田長政」(江崎惇著、新人物往来社)によれば、アユタヤ南郊の日本人町は3万坪の広さで、17世紀初めには2000人ほどの日本人が居住していたらしい。当時は、カンボジアのプノンペンなどにも有力な日本人町があったという。アユタヤの日本人町は、日本の戦国時代末期から主君を失った浪人が流入して人口が増え始め、特に関ヶ原合戦や大坂夏の陣以降、禄を失った武士たちが多数移住してきたと言われている。こうした実戦経験豊富な日本人たちは、精強な傭兵として王朝から重用されるようになり、政治的な勢力を蓄えていった。また、経済的には、主に朱印船貿易でアユタヤ日本人町は発展を遂げた。日本からは、武器(日本刀)や石見の大森銀山などから産出される銀が輸出され、アユタヤからは、鹿や鮫の皮革が輸出された。山田長政は数隻の船を持ち、刀剣の柄や鞘に用いる鮫皮と染料に用いる蘇芳木を日本に売って巨富を得ていたという。山田長政は、前掲書によれば天正18年(1590年)に尾張の神主の子として生まれ、父の死後は再婚した母の連れ子として駿府の紺屋で育った。今川家の菩提寺である名刹臨済寺で学び、町道場で武芸も身につけ、不良を従えて織田信長所縁の者と称して、喧嘩三昧に過ごしたという。一時期沼津城主大久保忠佐の六尺(駕籠かき)もしたらしいが、やがて駿府で殺傷事件を起こしてしまう。折から徳川の天下が固まるのを見て、国内で一旗揚げることは難しいと察し、海外雄飛を決心する。貿易商の持ち船の水夫に紛れて台湾にわたり、台南から長崎の豪商木屋弥三右衛門の船に便乗してタイに渡航し、日本人町の統領に仕えた。偉丈夫で頭も切れる長政は、軍事・貿易両面で頭角を現し、駿府を出てから10年、弱冠30歳で日本人町の統領になった。国王ソンタムの依頼により、チャオプラヤー川に侵入してきたスペイン艦隊を、日本人町が建造した軍船を率いて夜襲して全滅させ、王の信頼を得、彼は高官に任じられ、日本人部隊は王の近衛兵となった。また、貿易でも当時日本人は他国の貿易商を圧倒していたと言われる。寛永3年(1626年)、長政は駿府浅間神社に戦艦図 ファイナンス 2019 Jun.53連載私の週末 料理日記

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