ファイナンス 2019年4月号 Vol.55 No.1
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点では申し分のない姿であったが、頭だけは長すぎて釣合が悪かった。そこでこの人の像は殆どすべて兜を被っている」とある。また「アッティケーの詩人はスキーノス頭といふ綽名を附けた。スキーノスといふのは玉葱の一種である」とのことなので当時のスキーノスというギリシャの玉ねぎは縦長だったのだろう。アッティケーというのは、アテナイの所在するアッティカ半島のことと思われる。それにしても我ながらいいかげんな記憶である。さて腹が減ってきた。一旦英雄伝を閉じ、夕食づくりに取り掛かる。今夜の献立は、サーモンをソテーしてその脂で野菜炒めを作り、鶏もも肉を柚子胡椒風味で焼く予定だが、ペリクレスに敬意を表して、もう一品、玉ねぎのスープを作ることにする。玉ねぎのスープは、とにかく玉ねぎを濃い飴色になるまで炒めないといけないので結構時間がかかる。準備に手間取ってしまったが、玉ねぎのスープ大いに美味。本格的な味だ。サーモンも野菜炒めも鶏もも肉もまあまあおいしくできた。食後洗い物を済ませ、テレビを観ながら家の連中が寝室に行くのを待つ。静かになったところで、お茶を淹れ饅頭を食べながら、ペリクレスの物語に戻る。ペリクレスは気位高く、孤高の人であり、理想と現実の絶妙なバランス感覚を持ち、アテナイ市民のためになると思えば強引なことも押し通す腕力も備えた大政治家であったが、大衆の恐ろしさ、民心の薄情さは十分にわかっていた人物のように思われる。英雄伝によれば、ペリクレスは若い頃、陶片追放にかけられるのを恐れて政治には関わらず、政治家になってからも常に民衆派の多数党に身をおくことに努め、身の安全を図った。民衆を喜ばせるための競技会や祭典をデロス同盟の資金を使って盛んに開催して、移ろいやすい民意をつなぎとめた。民衆に絶えず接することにより飽きられることを恐れ、間をおいて民衆に近づくようにし、国家の大事でないと乗り出さず、他の仕事は友人や他の雄弁家にやらせた。大雄弁家であるにもかかわらず、演説については慎重を極め、登壇時は常に、その時々の話題にそぐわない言葉がついうっかり出てこないよう神々に祈ったという。また、後日揚げ足を取られぬためであろう。提出した法案以外は、何一つ書き物として残さなかった。(彼の演説としては、プルターク以外の歴史家が記録したものがいくつか残っているが、古代ギリシャ最高の雄弁家の名に恥じぬ見事なものである。)多くの王や独裁者を上回る権力を持ちながら、自分の財産を父が遺してくれた物より1ドラクメーも殖やさなかった。民衆には気前よく金銭を消費したが、自分の家族には切り詰めた暮らしをさせた。しかし、これほど身の安全に細かく気を遣っていたペリクレスであっても、一度民衆の怒りの矛先にかかると、忽ちにして弾劾を受けることは避けられなかった。一旦は休戦を約した、スパルタが盟主のペロポネソス同盟とアテナイ率いるデロス同盟との間で、ペロポネソス戦争が起きると、ペリクレスは、アッティカ半島に侵入してきた精強なスパルタの陸兵との決戦を避けてアテナイ籠城策を取る一方、海軍を派遣して敵の本拠地であるペロポネソス半島を攻撃した。ペリクスの戦略はうまく行くかに見えたが、折から城内に疫病が発生すると、政敵の扇動で、ペリクレスを批判する声が上がり始めた。ペリクレスは自身でさらに強力な艦隊を率いて出撃したが、さしたる成果が挙がらぬ内に、艦隊内にも疫病が蔓延した。市民の中には、彼に反対する勢力が多数を占めた。そして彼は、軍隊の指揮権を剥奪された上に罰金をも課されたのである。その後アテナイ市民は、ペリクレス解任後色々な指導者を使ってみたものの、ペリクレスに匹敵するものはいないことを理解した。市民たちが彼に対する忘恩を謝したので、ペリクレスは再び政務を担当することになり、将軍にも選ばれたが、やがて彼も疫病に倒れた。ペリクレス死去以降、アテナイは、刹那的な世論に迎合して無責任に好戦的な意見を吐く扇動家(デマゴーグ)たちの時代となる。衆愚政治はアテナイを疲弊させただけでなく、デロス同盟内でのアテナイの覇権的な行動を通じて同盟ポリスの離反を招くこととなった。ペロポネソス戦争はアテナイの降伏によって終わる。プルタークは、ペリクレスについて、温和と深切を保ち続けたこと、気位の高さ、あれ程の力を持ちながら嫉妬や立腹を恣にせず敵にも寛容であったことを称賛している。しかし、そんなペリクレスでも弾劾されたのだから、ギリシャ民主政は恐ろしい。 ファイナンス 2019 Apr.67新々 私の週末料理日記 その30連載私の週末 料理日記

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