ファイナンス 2019年4月号 Vol.55 No.1
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メダルをあげるから、金メダリストらしく生きていけ。」と言われているような気が最近ではしています。決勝レースの開始前にカナダの選手が他の選手一人一人と「good luck!」と言いながら握手を交わしたのです。私は「いいなあ、こういう世界って。」と感動しました。感動したおかげで緊張感も和らぎ、良いパフォーマンスができたと思っています。嬉しかったのは、海外の選手たちが、試合が終わった後に、私のところに来てくれて「おめでとう!」と祝福してくれたことです。どれだけ厳しい練習をしてオリンピックの決勝まで来たのか、お互いに分かるのです。「俺も頑張ってきたし、お前もそうだろ。」というところです。ソウルオリンピックでは、金メダルを獲得したことも嬉しかったのですが、スポーツを通じてかけがえのない友情を得たことが本当に嬉しく、大変貴重な経験となりました。(3)挫折、引退私は、その次のオリンピックも目指していましたが、結果的には出場できませんでした。その頃はちょうどバブルの時期で、私はすっかり遊び呆けてしまいました。ぬるま湯に浸かったような状態で1年間ほとんど泳がなかったのです。その後、米国のミシガン大学に選手として派遣され、向こうの学生たちと一緒に泳いでいました。周囲からおだてられたりして、好タイムを出すこともありました。米国には数か月しか滞在しなかったのですが、すっかり体調が戻り、いつでも選手に戻れる状態にまでなっていました。しかし、日本に帰ると、退屈な練習に飽きてしまい、また半年近く泳がなくなりました。いよいよ次のオリンピックが近づいてきて、やるのかやらないのか、自分で決断しなければならなくなり、私はもう一度オリンピックを目指そう、と決めました。オリンピックの決勝で泳いだ時の興奮や感動が忘れられなかったのです。しかしながら、私は休み過ぎました。いくら泳いでも自分の感覚で泳げません。どんどん調子が悪くなり、同じ種目の女子中学生のタイムにも負けるようになり、次のバルセロナ大会の予選前に引退を決断しました。引退に当たり、スイミングクラブの社長に挨拶に行った際、「挫折で終わったことは、人生の長い目で見ると悪いことではないかもしれない。」と言われました。後になってこの言葉の意味を悟りましたが、当時は落ち込んだ気持ちを抱えながら社会に入っていきました。(4)引退後の歩み、社会への貢献引退後、最初は大学の教員になりました。旧文部省のプログラムで、選手が指導者になるための2年間の留学に私は手を挙げて、米国東部ボストンにあるハーバード大学水泳部のコーチを2年間務めさせていただきました。帰国後、日本水泳連盟の仕事や、母校に戻る前には国際的な仕事もさせていただきました。世界には10万人のオリンピック参加選手がいますが、彼らがメンバーとなっている世界オリンピアンズ協会の理事に選ばれ、そこでも様々な経験をさせていただきました。「元オリンピック選手」という言葉は世界にはありません。「オリンピック選手」か「現役のオリンピック選手」かのどちらかしかないことをこのとき学びました。引退したメダリストたちにとって大切なのは「今何をしているか、社会にどう貢献しているか」なのです。競技者としてはメダルを獲得することはゴールですが、人生においてはスタートなのです。世界オリンピアンズ協会の理事に選ばれて、母校の理事長に挨拶に伺ったところ、「世界に出るなら博士号くらいは取らないといけない。医学部で勉強しなさい。」と言われ、仕事に勉強にと、とても忙しくなりました。ただ、そういう経験があればこそ、今日の自分があるのだと感謝しています。そのあと大学で指導者、研究者として活動してまいりました。大学の外においても、学校で子供たちに授業を行ったり、社会人に水泳を教えたり、競技力の向上とかスポーツと健康との関係について研究するといったことに取り組みました。私は以前より、日本水泳連盟に関わっていましたが、2013年には同連盟の会長を引き受けました。先にも述べたとおり、私は、金メダルは自分の力だけで獲得できたのではなく、「お前に金メダルを取らせてやる」という色んな力が働いた結果ではないかと思っています。そのことからも、これからは世の中や社会のために生きていく人生でなければいけない、と考えていた ファイナンス 2019 Apr.45職員トップセミナー 連載セミナー

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